宮本常一と民俗学 森本孝

2021年9月15日初版第1刷発行

 

表紙裏「宮本常一は、人生の約6分の1を旅に費やしました。日本中をベタベタと歩きまわり、人びとから話を聞き、膨大な民族資料を発掘したのです。本書では、瀬戸内の島の百姓からはじまり、民俗学のパイオニアとなった生涯を、常一本人が自ら語ります。」

 

目次

宮本先生と漁村とわたし

はじめに 宮本常一民俗学

1 家族のぬくもり      (0~6歳ごろ)

2 小学校で         (6~15歳)

3 逓信講習所と郵便局時代  (16~18歳)

4 師範学校と教員時代    (18~23歳)

5 柳田先生と渋沢先生    (24~28歳)

6 アチックミューゼアムのころ(32~36歳)

7 戦後の日本を歩く     (38~56歳)

8 若き仲間たちと      (57~73歳)

宮本常一略年表

 

・宮本が民俗学に目覚めたのは昭和8年、大阪の小学校の先生だったころ、柳田国男が編集発行している雑誌『旅と伝説』を手にしてからだった。柳田は『遠野物語』をまとめ学問としての民俗学の礎を築いた民俗学の生みの親。渋沢敬三の指導下で全国の農村、漁村を訪ね歩き、生涯で4000日余りを旅ですごし、宮本を泊めた民家は1000軒あまり、会った人びとはその10倍は下らない。『忘れ去られた日本人』『日本の離島』が脚光を浴び、「民衆の発見者」と称される。

・尋常高等小学校高等科を卒業した後、父母や祖父のために百姓を手伝ったが父の許しを得て逓信講習所で学び高麗橋郵便局に就職した。睡眠を5時間に削り1日7時間を勉強に宛てて苦学した。天王寺師範学校二部の試験に合格し大宅壮一にいろんな分野の本を出来るだけたくさん読むようにとアドバイスされ1か月に1万頁を読む目標を立てた。卒業後、修斎尋常小学校の教員となり5年生を担当した。21歳で師範学校専攻科の試験に合格し、この頃に「旅と伝説」に出会った。小学校の教員となった後肺結核となり故郷で万葉集やファーブルを読み、「旅と伝説」に投稿した。柳田先生から故郷の話を集めて投稿するようにと励まされた。

渋沢敬三の談話会での足半(あしなか)の話は新鮮で民俗学の方法論に目を開かされた。渋沢のアチックミューゼアム(日本常民文化研究所)で全国を回り、渋沢から、君は敗戦になっても生き延びて農漁村の文科と秩序を守るように、大阪府知事からも戦後の復興のためにも野菜の供給体制の確立に協力してもらいたいと言われた。

・戦争で原稿1万8000枚、100冊の未整理の民族採集ノート、8000枚の写真が焼かれた。戦後、現地調査の結果を踏まえて、離島振興法、山村振興法の成立に尽力し、博士号を取得すると敬三が祝ってくれた。常一だけでなく長男も敬三邸で寝起きするようになっていたが、長女の高校卒業を機に国分寺で独立した。敬三の死後、武蔵野美術大学で講義を受け持った。

・最後の「日本文化形成史」の原稿では、日本の稲作は、朝鮮半島から伝わったとする説、台湾など南方から沖縄諸島を経たルートだという説もあるが、中国揚子江の河口域に住む越の国の海洋民の家族の群れが筏船に乗って中国の山東半島をへて日本に伝わったルートもあるという試論を書いたが力尽きた。