平成23年7月25日第1刷発行
帯封「歴史上最も忠義を貫いた希代の名将の生き様を描く渾身の歴史小説 日本人はこの人を忘れてはならない」
目次「一、民衆の目線で生きる 二、米価調整にのり出す 三、人間天皇 四、菊水の旗ひるがえる 五、義を貫く 六、海の怪物名和長年 七、新政をゆるがす者 八、京童たちが体感したもの 九、正成に好感をもつ尊氏 十、怪鳥の声は民の声 十一、義貞はウサギ尊氏はカメ 十二、複雑な身分意識 十三、北畠家のナイーブな公家魂 十四、尊氏抱き込みを建言 十五、ああ忠臣湊川に死す」
・正成の屋敷は現在大阪府南河内郡千早赤坂村水分と措定されている。正成はこの地域の配水権と道路管理者であった。朝廷の国司とは別に鎌倉幕府は守護・地頭というポストを創設したが、正成は横暴な地頭を懲らしめた。後醍醐天皇が正成を好ましく期待したのは地域に跋扈する地頭を自発的に懲らしめる存在でもあったからだった。
・後醍醐天皇は京の米価を安定させるために関所を廃止し朝廷の記録所直営の販売所で販売しそれを全国規模で波及させようとした。これは幕府に対する挑戦でもあった。正成は京の民によいことであり朝廷のやり方に好意を感じ、米の調達に協力した。
・倒幕密儀の背後には後醍醐天皇がいたため、幕府の攻撃対象が後醍醐天皇と側近に向いたために笠木寺は退避し、正成は後醍醐天皇に拝謁した後、赤坂城と千早城を築城し、後醍醐天皇自らは笠置山に籠った。後醍醐天皇は捕らえられた。光厳天皇は神器なしで即位した。
・後醍醐天皇は隠岐に配流された。供をしたのは寵愛されていた阿野廉氏と千種忠顕だった。京に戻った後醍醐天皇の恩賞方の頭人(長官)として当初は桐蔭実世が配置され、そこに結城親光・楠木正成・名和長年などが任命されたが、桐蔭は阿野・千種が悉くひっくり返して不公平な恩賞をするため途中で投げ出した。これが親政の土台を揺るがす元となる。
・護良親王と足利尊氏との対立が決定的になった時、後醍醐天皇は護良親王を捕縛し、新田義貞と足利尊氏との対立が決定的になった時、後醍醐天皇は尊氏討伐の断を下し、正成は後醍醐天皇の元から離れなかった。正成は尊氏を囲い込むことを提案するが、容れられなかった。
・都から落ちた時に光厳上皇から義貞討伐の院宣をもらった尊氏は、九州より捲土重来を期して水陸両道で東上開始した。狼狽した朝廷は戦略会議を開き、そこで正成は尊氏との和睦を提案したが、坊門清忠の反対にあい退けられた。貞義を総大将とする軍の指揮下に入り、兵庫で足利軍を迎え打つことになった正成は桜井に息子の正行を呼び寄せ、母の元に戻した。朝廷が尊氏軍に敗れること、自分も討死することを覚悟した。正成は湊川の会下山で陣を張り、直義軍を防ぐ役目を貞義から命じられた。尊氏は生田岬で上陸すると見せかけ、和田岬で上陸し、義貞軍は退路を断たれ、正成軍も孤立した。それでも正成は怯まず16回もの突入を繰り返した。兵が損耗し73人になったところで部下に脱出して命を永らえよと頼み、自らは弟正季(まさすえ)と互いに身を刺し合い自決した。
入門書としてはスッキリとよく出来ている。名和長年と正成がツーカーのような関係にあるとは思っていなかったし、帝の側近として誰が佞臣だったのかについても今一つはっきりしなかったので、そこは勉強になった。ただ正成を人の好い好人物として描き過ぎている感がある。