破軍の星《上》 北方謙三

2008年5月20日発行

 

公家でありながら若干16歳で不世出の麒麟児と謳われた新陸奥北畠顕家は千五百の軍を見事に統率して白河を越えていった。これを山の民と呼ばれる安家(あっか)一族がじっと見ていた。彼らは武士ではなく領地を持たず武士とは互いに干渉し合わないが明らかに指揮を受けた軍勢の動きをしていた。鎌倉で北条幕府が倒れ都で帝の親政が始まるというこの時期に安家一族の宿縁を感じ、やがて棟梁となるであろう足利尊氏と朝廷が対立した時に自ら争いに踏み込むのか巻き込まれていくのか。一族の長利通の弟正通から顕家が面をつけていた聞くと利通はかつて顕家が14歳の折に主上の前で陸王(中国北斉の王)の舞を舞い人を殺した、陸王はたぐい稀なる美貌を持ち、戦に出る時はおぞましいほどの面を付けたということを聞いたことがあると語った(第1章 陸王の面)。

建武元年、尊氏の弟直義が成良親王を報じて鎌倉へ下り関東八か国を統治することになる。陸奥守が戴く六の宮も義良親王の宣下を受けた。安達郡で北条の残党を主力とした叛乱の軍勢千五百を顕家自ら出陣して掃討するが、目的は陸奥守直々の出陣であるにもかかわらず兵を出そうとしない近在の武士たちにそれは謀叛と同罪であるとの触れを回し、これにより2万5千を超える軍勢が集まった。顕家は山の民と会おうとして津軽の北条残党討伐のために閉伊軍山中をあえて通行すると正通と太郎秀通が顕家の前に姿を現した。2人が現在の帝に対する顕家の認識を尋ねると顕家は自らの思いを率直に語る。そして顕家は「清冽な国、清冽な民に近づこうとして自らに戦いを課している」「私が見ている清冽なものは夢かもしれぬ。私が若すぎるゆえに抱いてしまう夢かもしれぬ」「しかし夢は見るものではなく追うものではないだろうか。追うことではじめてはっきりとその姿も見えてくる」と語る。この言葉に山の民の一族の長正通は心を動かされた。表向きは正通と太郎を追放し、いざという時に足利の追及を避けることにし、実質は顕家の夢に一族の運命を託す決断をした。太郎が顕家の前に現れると、顕家は全てを察し麾下に置いた。大塔宮が幽閉され、勝殺害された。尊氏は勅許なく関東の叛乱の鎮定のために京を発ち関東に向かった(第2章 北辺の雲)。

北条時行にわざと負けた直義は鎌倉に戻り、尊氏と再会する。2人の年来の友である斯波家長も3日遅れて到着した。尊氏の命で家長は三千の兵を率いて白河に向かった。家長は北上川雫石川が交わるあたりで館の造営にかかった。尊氏が京に向かい、それを顕家が追撃せねばならなくなる時に背後を襲うためだった。が顕家はそれを見越して家長に馬が渡らぬようにせよと下知していた。足利討伐の命を受けて新田義貞は軍勢を率いて下向した。これに対し尊氏は朝廷を直接の敵とせず義貞誅伐の激を全国に飛ばした。初戦は勝利した義貞だったが、箱根で尊氏に敗れると敗走した。駿河の足利軍が西に向かうと顕家は出陣した(第3章 回天の光)。