破軍の星《中》 北方謙三

2008年5月20日発行

 

朝廷は新田義貞が総大将となり軍勢が鎌倉に派遣されたが尊氏の返り討ちに遭う。勢いに乗って尊氏は義貞を追撃し京へ迫ろうとした。その直前まで直義は義貞と3度激突したが3度とも敗れた。ところが尊氏が援軍にやってくると箱根竹の下で義貞を打ち破り、新田軍は1度の敗戦で大きく崩れた。義貞は天竜川を渡る際に浮橋を壊さず残したが、直義の頭では考えられなかった。尊氏には理不尽を呼ぶ力があった。顕家はその報を聞き、義良親王を奉じ尊氏軍を追って上京を開始する。義良親王が体調を壊しても止まることなく、厳しい戦いであることを説き伏せて行軍を続け、顕家は尾張熱田に入る。その兵数は5万。尊氏の予想よりも早い到着だった。尊氏は斯波家長を奥州に配置し顕家を抑えていたにも関わらず、驚くべきスピードで近江愛知河に到着し、正成は近江で兵糧を入れて陸奥守の軍勢の兵糧とした。この後欧州軍は琵琶湖を渡り京に攻め込む。琵琶湖を渡すのに4日はかかる計算だった(第4章 北の疾風)。

近江愛知河で兵糧を取り兵たちが生き返ったように元気になり琵琶湖を渡った。京には尊氏の軍勢が殆ど入っていた。正成と顕家は京の出入口を全て絞り込み、足利軍と欧州軍は正面からぶつかり合った。新田義貞が合流すると京深く足利軍を追撃した。出入口を塞ぐという作戦は変更を余儀なくされ京に侵入した。側面の上杉勢が堅いために膠着状態が続くと判断した顕家はここが勝機と見定めて新田の軍勢の中を駆け抜けて上杉勢とぶつかった。上杉憲房を討ち取ると、十数万の足利軍が一斉に潰走を始めた。尊氏が丹波篠村に落ちのび尊氏の首級があと一歩のところで新田軍の進撃が止まった。山狩りをすれば尊氏を捕らえることができたはずなのに義貞はそれをしなかった。紙一重のところで尊氏は逃げ切った。 一旦は陸奥に戻る顕家だった。正成の言動(その中には義貞を誅伐し尊氏と結ぶべしとの上奏もあった)からは死が感じられせた(第5章 白き覇道)。

顕家は、三河駿河から鎌倉に向かった。鎌倉では斯波家長が鎌倉入りを阻止しようと迎え撃とうとしたが、顕家は倍する兵力を要した斯波家長を簡単に蹴散らした。白河を越えた顕家は陸奥の乱れを鎮定している最中、九州では尊氏が上洛の大軍を組織し再び上洛しようとしていた。正成が数十万の尊氏の軍勢を迎え撃ったが敵に押し込まれ自刃して果てた。顕家はもし今上洛の使者が来ればどうすればよいか思案に暮れていた。京に向かう兵はない。京は民のことを考えていない。自分は陸奥を治めるのが使命である。今の朝廷に大義はない。大義はもっと別のところにある。そう思うが揺れ動いていた。山の民の長安家利通から陸奥守を盟主と仰ぎ陸奥に新しい国を作ることを夢見ていると言われ、その決意の証を見せると言って顕家を伴って洞窟の中に入っていった。夢に対する覚悟と言ったのは、積み上げられた金だった。顕家は新しい国を作る決意でなければ金のことは忘れる、新しい国を作ろうと思ったら遠慮なく金は使わせてもらうと応えた(第6章 孤愁)。