楠木正成《上》 北方謙三

2022年2月22日初版発行

 

矢野荘にかつて寺田方念という悪党がいた。今でも都鄙名誉に悪党、と呼ばれて時々人の口にものぼる。正成が見た、最初の悪党の戦だった。寺田方念の戦を見たとき、正成は世が乱れる気配があると感じた。正成が二十二歳の時、父に言われ、諸国のひとり旅をした。父は奈良から京への街道に力を持ち、大和川の水運にも関係していた。暮らしむきは豊かだった。播磨では赤松円心という男が悪党をまとめていた。猿楽の一座などが正成に全国各地の情勢を伝えていた。正成は伊賀の金王盛俊という悪党が気になっていた。金王盛俊は村人を味方にし、そういう村を荘園内で増やし、団結させていた。鎮守軍が入りにくくしていた。正成は物流にも目を向けていた。三十を超えた新帝後醍醐の親政になったとしても六波羅が支配者という京の情勢は変らないが、六波羅すなわち幕府との対立が生じ、緊張感が増していた。関東でも同様のことが起きていた。武士による領国支配は西国で崩れかけ、東国でも北条氏の支配に反撥する武士はいて、国のありようが崩れかけていた。ただ正成にはその先は見えていなかった。朝廷からの使者が村々を訪ねて帝に心を寄せよと説いて回っており、正成も大和の山を歩いていると日野俊基に出会い、帝に忠義を尽くすのが武士だと諭されたが、的外れたことを言われたと正成は思った(第1章 悪党の秋)。

 護良(もりよし)親王三千院梶井門跡に入室後、遠からず門主となり、やがては天台座主になり比叡山に入ることが予定されていた。倒幕の密儀が発覚し六波羅の軍勢が京の屋敷を包囲し複数の公卿が捕縛されたとき、護良は帝こそが密議の中心であることを知っていた。自分が天台座主になり比叡山を動かせれば10万を超える数になる、倒幕のためには見逃してはならない力だし、武士の支配を覆そうとする帝の考えは、間違っていないが、武士の力を借りて武士を倒すのは、ほかの武士に力を移すだけのことにならないのか、国がどうあるべきかとの思いを護良は常に抱いていた。民を知りたい。そのために旅をすることだ、まずは大和から旅をしようとした。正成の長男梓丸と入れ替わり父・正遠が死んだ。護良は伊賀・大和・紀伊の次に播磨に入り、赤松円心と会った。正成は河内を手中に収めた。父は河内で直属の兵五百のほか、誓氏を差し出す土豪も押さえていた。しかし六波羅と対峙することは避けたかった。摂津長洲荘で弟正季が捕えられたため正成が単身で赤松円心の長子範資の館に出向いた。互いに悪党でありながら六波羅から目をつけられぬように時を待っていることを知った。護良は赤松円心の三男則祐(のりすけ)を自分の傍につけた。赤松が三男を送り込んできたことを承知で、則祐にも父との連絡を絶やすなと命じた。護良は様々な人間と会い、武士の力が強いこと、武士の支配を断ち切って帝が支配する方法が見えてこない、武士を養うために民がいるというのは間違いではないのか、民を守るために武士がいるはずではないのか、力はないが権威だけある朝廷が力があると錯覚している、この国を統治するためには何をなすべきか考えていた。鎌倉では得宗北条高時が出家し混乱が起きていたが、それに乗じて幕府を倒そうとする武士は現れなかった。幕府はまだ強い。正成は調練に立ち会った。俺らの闘いは武士とは違う、およそ武士が考えつかないようなやり方で闘う、山にあるすべてのものを味方にするのだ、と正季に語った。正成に次男嵐丸が生まれた。そうした時期に護良が正成を訪ねてきた。親王としてではなく男と男で話がしたかったと言い、酒の飲み比べとなった(第2章 風と虹)。

 正成は伊賀の金王盛俊と今後のことを話した。北畠具行(ともゆき)が盛俊に会いにやって来て、帝から声を掛けられたら兵を出す用意はあるかと聞いた。それを盛俊から告げられた正成は、帝のまわりがどれだけ本気になれるかだと答えた。その具行が正成にも会いにやって来た。具行は民の為の国を作ろうとすべきだと思念から考えていた。正しい考えだが、民の暮しの中から出た声でないため、正成は具行に危うい純粋さを感じ、それは大塔宮が持っているものと同じだと感じた。護良は叡山に入り座主としてなさねばならぬことを下の者に任せ、自らは僧房の兵を集めて戦の調練を始めた。護良は具行に、民草の強さとたくましさを持っている正成と互いに語れ、悪党を束ねることができれば倒幕が見えてくるかもしれないと語った。正成は、具行を通して朝廷が利用できる存在か見ようとし、大塔宮も悪党の力を認め利用できる存在として考え始めていた。正成は大鳥荘で楠木一族の全兵力を用い、六波羅には河内は関わりがないと思わせながら悪党を蜂起させようとしていた。正成は悪党がひとつにまとまれば幕府に潰されるが、まとまらなければ悪党が生き延びる道はない、小さな知恵では悪党はいずれ滅びる、大きな知恵をこれからどうやって出せばよいかを考えていた。大鳥荘での隆起は、はじめは、どうということのない蜂起だったが、次第に蜂起する豪族が増えていった。六波羅も一筋縄ではなかったが、河内さえ乱れなければ和泉の蜂起は終息するとみていた。赤松円心は和泉の混乱の背後に正成がいることを読んでいた。正成にとり和泉の退き時が重要だった。正成は見きわめるべきものをかなり見きわめたことで、蜂起を急速に収束させた。正成に三人目の子が誕生した。正成の力はただの悪党とは呼べないほど河内では大きかった。討伐軍を圧倒したのは外側から加わろうとする者が多く出たからであった。伊賀、大和、和泉、摂津、瀬戸内海と正成の力は拡がっていた。しかし、正成は河内の豪族であり続け、その正体を見せることはない。円心もまた光明に力を隠している。正成は大塔宮の求めに応じて叡山に登り、大塔宮と対面した。大塔宮は朝廷の軍を組織したい、そのために悪党をまとめてほしい、幕府を倒した後は武士をなくし、朝廷に軍を置くと語ったが、正成は、悪党は生き延びることを求めている、そのためには北条にも与する、幕府に逆らっているのは、幕府が生き延びさせてくれないからだ、領地を与えることができないなら銭を与えるしかない、ただそれは幕府でもできること、要は早い者勝ちだと言った。それは朝廷が無意味だと言ったと同じだった。正成は、悪党に得をすると思わせれば、兵は集まってくる、水運、陸運、海運、そこで動くことを認めればいい、新しい国がそれを認める、それならば正成は自らの力を売ろうと言った。正成は大塔宮に挙兵を勧めていた。帝は挙兵を決意し、それに護良が合流し、それに応じて正成は一千の兵を決起することを決めた(第3章 前夜)。