楠木正成《下》 北方謙三

2022年2月22日初版発行

 

護良の初陣は勝利した。帝は笠置山におり、護良は帝に合流した。幕府が関東から6万から7万の大軍を発した。足利高氏新田義貞という源氏の流れをくむ武将も加わっていた。正成は帝に拝謁を許された。廷臣は千の軍勢を笠置に向けよと指示するが、正成は河内で挙兵する、幕府を倒すことこそ主上を守ることと考えていると言い張り応じない。正成は、重ねて、幕府はまだ強い、戦は長いものになると言い、帝に対し、「正成の命があると聞かれるかぎり、決して負けてはおりませぬ」と告げた。帝は頷いた。正成は金剛山麓の小高い丘に城を築いて幕府の攻撃を受けることにした。石を大量に運び込ませた。正成挙兵の知らせは畿内を駆け回った。播磨の赤松円心はじっと動かない。六波羅が動き出した。和田助康が討伐の命を受けたが、正成と近い関係にあり、犠牲を出さず、それでいて激しく闘ったように見せかけた。幕府軍の本隊は笠置を囲み帝が捕らえられた。正成は大塔宮に、帝の挙兵で朝廷と幕府との対立が誰の目にも見えた今こそ、腰を据え、全国に令旨を発せよと言い、時をかけて潜在する兵力を顕在化させていった。正成は自分と大塔宮が死んだという噂を流した。帝は隠岐へ配流となった。正成は、朝廷直属の軍に悪党が組み込まれ、武士と替わっていく、全土を朝廷の領とし、そこの税で軍を養っていく、問題は朝廷の政事だ、幕府を倒す戦の中で廷臣の質がいくらかでも変わるか、男は夢を追って闘うのだと、金王盛俊に語った。坂東から大軍を引き出す。畿内で何か起きるたびに大軍を出さざるを得ないのが幕府の弱点だった。幕府の負担が増えるからだ。正成は名和長高に会うために伯耆の名和湊へ入った。時を見て隠岐から帝を乗せた船が来た時にどうするかを名和に尋ねた。名和は悪党としてその時に直面すれば決めると応えた。それで2人は通じ合うことができた(第4章 遠き曙光)。

笠置山が落ちた時、帝から離れて逃げることができなかった北畠具行は斬られた。護良は一千の兵を率いて吉野金剛山寺に入り、吉野に倒幕の旗を掲げたという令旨を全国に飛ばした。帝は民の上に立つのではない、民そのものだ、それを帝はどこまで理解してくれているのか。正成は千早城と赤坂城の構築を急いだ。大軍の京への発向と同時に、赤松円心が挙兵した。大塔宮には生き延びて貰わねばならぬとの正成の言に大塔宮も承知した。吉野に七万、千早赤坂にも七万。三千規模の軍勢が赤坂城に攻めかかり、九度撃退されては攻撃することを繰り返した。円心が初めて錦旗を掲げた。坂東の大軍が全力で正成と大塔宮を潰しにかかろうとする今こそ、正成を潰させないための戦を起こした。それが円心の秋だった。六波羅は攻囲軍の中から1万5千を刺して播磨に向けたが、円心の攻撃により摂津の原野に散らばって消えていった。雷鳴は続いていた(第5章 雷鳴)。

すべてが動き始めていた。まず赤坂城が落ちた。時を違えずして吉野が落ちた。千早城に籠るのは楠木一党の五百である。幕府軍は十数万に達していた。間断なく攻められ、兵たちの頬が削げ、眼は飛び出して異様な光を放ちつつある。大塔宮は敵の兵糧を襲った。中国でも瀬戸内海でも九州でも決起が起きていた。すべてが動き始めていた。円心は六波羅を落とすべくその寸前まで攻め込んだ。正成も円心も武士でなく悪党の力だけで六波羅を落とすことを目指していた。それでこそ大塔宮を京に入れ、京で軍勢を募ることができた。帝が隠岐から脱出し伯耆に入った。それを名和長嵩が迎えいれた。伊賀、大和で金王盛俊が指揮して御家人艘が幕府のために立ち上がるのを押さえていた。帝が全国に綸旨を出し始め、危惧した通り、高氏にも貞義にも出されたようだった。ただ反幕に踏み切る気配はなかった。籠城して半年が過ぎようとしていた。千早城疲労の極みに達していた。有力な武士だけは動いてほしくなかった。動いた時点で、武士と悪党の対決というかたちが崩れる。円心の赤松軍に名和長嵩が加われば、あるいは千種忠顕が連合が命じられていれば六波羅を落とすことが可能だった。だが帝は千種忠顕に大将を命じただけであったため千種忠顕軍は自分の功名心のため軍勢を京に差し向けて六波羅の軍勢に惨敗し、大きな可能性の芽を潰してしまった。円心が京への決死の攻撃をかけていた。4度、5度、7度、8度になり、10度を超えた。正成は13度の攻撃、寡兵で大軍に当たった。大塔宮も全力で動き回り、京への援兵を許さなかった。が、ここで足利高氏丹波篠村で反幕の旗を掲げた。この瞬間、正成が、大塔宮が、円心が思い描いた倒幕の形が崩れ去った。あとは倒幕という行為があるだけだった(第6章 陰翳)。

六波羅が潰れるのはあっという間だった。足利軍が加わると瞬時に落ちたという感じだった。京の治安は保たれた。足利軍が実に機能的に動いた。北条の支配が一掃された分、内部の複雑さは消え、いっそう純粋な武士として、以前より強く存在しているようにすら見えた。帝は暗愚だった。恩賞のやりようが、それをはっきりと尊氏に認識させた。尊氏は大塔宮から戦をする力を奪うことだけに心を砕いてきた。赤松円心を離し、正成を排除すれば大塔宮は力を失う。大塔宮が正成とともに作ろうとしたのは朝廷の軍だと尊氏は読んでいた。それを帝が理解する器量を持たないというのが尊氏にとって救いだった。大塔宮の征夷大将軍も召し上げられた。尊氏は北畠顕家鎮守府将軍義良親王を奉じて陸奥に下向した動きが気になり、弟の直義を鎌倉に向かわせた。大塔宮の最大の敵は、我が子を皇太子にするために大塔宮が邪魔だと信じている阿野廉子だった。それを吹き込んでいるのが高師直で、つまりは尊氏だった。正成は、今の帝でなく、この国が古来から持った帝というものに殉じようという気持ちだった。尊氏が突然正成を訪ねてきた。尊氏は正成に、武士をなくそうと考えるのは百年早かったという。正成は大塔宮の処断が近づいているのを知らせるためにやってきたという気がした(第7章 光の匂い)

尊氏は正成をしばしば訪ねて本音を語った。正成は尊氏に英傑を見た。尊氏は帝と向き合うのは武士の為であり民の為であるという。英傑であるが故に迷い悩んでいる尊氏のことが正成には悲しいほどはっきりと見えた。大塔宮が捕縛され、正成はこれで終わったと思った。帝はわが手で自らの首を絞めた。流罪先は直義がいる鎌倉だった。鎌倉で起きた叛乱に直義はわざと負けて尊氏が鎌倉に向かう理由が立った。その最中、大塔宮が死んだ。正成は大塔宮を弔うために河内に寺社を建立し始めた。鎌倉に入った尊氏に対し、新田貞義を大将とする討伐軍が決定されるまで2か月も要した。尊氏は貞義討伐のための軍勢督促状を直義の名で出し、朝廷の汚名を避けて貞義との私闘という形に持って行った。正成は天下が茫漠とし乱世が続いているのを感じるだけだった。悪党の戦いは終わったしまった(第8章 茫漠)。

鎌倉から京に上り瀬田で新田軍と対決した足利の軍勢は、円心の協力を得て義貞の背後に回ろうとしただけで貞義軍を潰走させ京に雪崩こんだ。宇治にいた正成は動かず、北畠顕家が神がかりの勢いで近江愛知川に到着した。京で全軍対決が始まり尊氏を篠村まで追い詰めたが義貞が詰めの一歩を欠いた。正成は尊氏をあえて見逃した。尊氏はこの国のために殺すべきではない、尊氏の首を取れば武士の沙汰は義貞がなすがそういう国を想像したくなかった。正成の夢はすでに破れていたのだった。尊氏は負けた。しかし死なない限り負けではない。正成は尊氏にそれを教えた。円心は尊氏が負けた理由は錦旗がなかったからだと言い、持明院光厳上皇院宣を受けた。息を吹く返した尊氏だったが、再び正成に押し込まれ船で西に向かった。正成は河内に帰った(第9章 人の死すべき時)。