道誉なり 北方謙三(その2)

1995年12月7日初版発行

 

道誉は義詮がいる鎌倉に向かった。戦はまだ続いており、後醍醐帝の崩御後、吉野では次の帝を立てた。直義の鎌倉での政事は北条高時が執権だったころと似ていた。直義は公平で峻烈でさえあったが、北条の幕府の機構を超えてはいなかった。師直は幕府軍の育成に腐心していた。道誉は出雲守護職に補された。道誉は観修寺経顕と良好な関係を築き、他の公家との折衝もうまく進めた。幕府は直義派と師直派の二つに割れていた。尊氏は直義と師直を競わせた。戦雲の気配が河内辺り中心に漂った。直義と師直の力関係が逆転した。師直は楠木の遺児との戦いに勝利し、吉野を落とすため、全山に火をかけ、焼き尽くした。大覚寺統の帝は南に落ちて行った。直義は中国の探題を直冬に召し出させることに成功した。尊氏は花一揆の調練を続けていたところ、花一揆の一人から橋勧進の話を聞き、当日尊氏が参加すると、事故が起きて尊氏の影武者が死んだ。その直後、直義は尊氏に師直の執事罷免を尊氏に求め、尊氏は潮時と考えてこれに応じた。師直の後任は師世だった。師直が後ろで操り、それを直義は警戒するだろう。幕府は少しずつ毀れていくが、それはそれでいい、毀れたところには、新しいものが作れると尊氏は思った(第6章 花一揆、第7章 橋勧進)。

師直は道誉に義詮を託した。理由は言わなかった。異変は、その数日後に起きた。師直が兵を動かした。尊氏の館を囲んでいる。八千近い兵を動員した。直義がそこへ逃げ込んだからだった。道誉は動かなかった。直義は政事の統括者の立場を退き、義詮がそれに代わり、師直は元の執事に戻った。師直は直義を裸にし始めた。直義派の武将が次々に罷免された。直義の養子で尊氏の実子だった直冬に対して尊氏は直冬討伐の軍勢を組織し諸泰を向かわせた。直義は師直討伐の兵を挙げた。直義と朝廷が何らかの合意に達したことが明らかになり、尊氏は征夷大将軍として直義の軍と対峙した。尊氏は講和を優先し、師直、師泰が出家することで話がついた。道誉は義詮に、今は人の心が乱れ、乱世だと言った。直義は政事の統括者の地位を辞した。尊氏は道誉が賀名生の朝廷と結んだとして道誉の陣と対峙した。尊氏は花一揆を中心とする軍勢を組織し直義討伐に向かった。直義は降伏し、死んだ(第8章 騒擾やまず)。

義詮は賀名生の朝廷との交渉で疲れ切っていた。道誉は能役者を招いた。観世丸は観阿弥と、犬王も道阿弥と名乗った。今後の芸を担っていく二人だった。三つ巴だった争いが、今は賀名生と幕府の対立となり、やがて足利の幕府は強くなると読んでいた。道誉は光厳、光明両上皇の母の広義門院を説得し、広義門院の治世としすぐに弥仁王に践祚させようとした。天皇がいない今の状況を打破するには道誉が必要だった。道誉は58になっていた。いつ死んでもおかしくない歳である。幕府は京を回復した。道誉は直冬を担いだ山名時氏と昔から反りが合わなかった。北陸の斯波高経は足利家と並ぶ家格だと自負を持っている男で、この二人を中心に、かなりの大名が直冬を担ぐ。次の京攻撃は激烈なものになる。幕府と拮抗する力と道誉は読んでいた(第9章 無窮)。

義詮を総大将とする軍は、道誉の助言通り、京を奪回するために敵の山名の陣の脇に駈け抜けて行った。山名軍は狼狽した。尊氏の本陣が義詮の軍勢と合流して四万ほどになった。直冬を総大将とする敵は山崎から鳥羽にかけて二万、京の中に三万いた。互角の戦いが続いたが、尊氏の源氏の白旗を掲げての気に満ちた軍勢が両翼に拡がると敵の軍勢を圧倒した。尊氏は直冬は放っておく、斯波高経はこれまでと同様に北陸を守って貰いたい、山名時氏の追討はいずれ、とした。肥後の菊池武光は後醍醐帝の皇子、懐良親王を推戴し、数年で急速な力をつけていた。菊池は壱岐対馬を挟んで朝鮮を含めた九州を独立国とする夢を持っていた。尊氏は躰の中の血が熱くなっていった。自ら九州討伐に乗り出そうとしたが、賀名生に拉致されていた光厳、崇光の両上皇が京に戻ってきたため、九州討伐はしばし沙汰やみになった。尊氏は菊池を強敵と見て花一揆の調練を続けた。が調練中に倒れた。尊氏の顔に死の影が漂っているのを道誉は見た。尊氏は死んだ。義詮の子を対面すると、尊氏が生まれ変わったという気分に襲われ始めた。尊氏の孫だと道誉は思った(第10章 尊氏は死なず)。