三国志 第1巻 宮城谷昌光

2008年10月10日第1刷

 

裏表紙「建武元年(西暦25年)に始まる後漢王朝では、幼帝が続き、宮中は皇太后外戚と宦官の勢力争いに明け暮れていた。正義の声は圧殺され、異民族の侵入が頻発し、地震や天候不順が続く。六代目の帝に皇子が生まれた時、守り役に一人の幼い宦官がついた。その名は曹騰。後に八代目順帝の右腕となった彼こそ、曹操の祖父である。」

 

楊震は「四知」という訓言を遺した。楊震が出仕した年から7年目に和帝が27歳で崩じた。長子勝には疾があるため践祚を阻まれた。阻んだのは和帝の皇后(鄧太后)で、生後百日余の赤子が殤(しょう)帝として即位した。が、殤帝が直ぐに亡くなり跡継ぎ不在となる。鄧太后は和帝の兄清河王の御子を手元に置いて養育していたので、この時13歳の御子が第6代皇帝(安帝)となった。山東半島の東來軍郡の太守に転じた楊震の下に王密が賄賂を持参すると楊震は断った。次に楊震は涿郡の太守に転じた。この頃、曹騰が宦官の従官になった。彼の孫が曹操である。

母方の親戚を外戚といい、歴史的には問題が多かったが、鄧皇后と兄の鄧騭は善政を行った。鄧皇后の摂政は続き、安帝は27歳となった。鄧皇后は宦官には用心した。閻皇后は保を皇太子にさせたくなかったが、鄧太后は保を皇太子とした。だが本心は徳があり賢い翼を帝位につけたかった。保の護衛団に少年の宦官を付けた。曹騰が学友の一人に選ばれた。70歳過ぎの楊震が司徒に任命された。門閥のない一介の学者が首相となった。鄧皇后が亡くなると安帝の乳母の王聖は歓躍した。皇帝を操って何でもできると。安帝は鄧氏一族を一掃した。安帝は右耳で取り巻きの宦官の江京らの意見を聴き、左耳で閻皇后の意見を聴いた。安帝に直言した朱寵は官を免じられた。楊震はくり返し上疏した。しかし安帝は王聖と伯栄を寵幸し続けた。司徒を懐妊し大尉に遷された楊震はそれでも上疏を続けたが、結局、宦官に陥れられて自殺した。この訃報に樊豊は破顔した。ここに三国に向かう伏流が生じた。佞臣が暗躍して安帝は皇太子保の廃嫡を決めた。その直後、安帝は体調が急変して崩御する。閻皇后と宦官の江京の肝いりで北郷候が皇帝になった(第7代少帝)。乳母の王聖、大将軍耿宝は失脚し、閻太后と江京が実権を握った。が二百余日で崩御した。閻太后と江京は新しい皇帝の候補を探し、宦官の孫程はクーデターを企てた。結局、江京は殺され、閻太后一族は失脚させられ、元皇太子保(済陰王)が復権して8代皇帝・順帝となった。済陰王に仕えている曹騰は小黄門に昇格し、クーデターを実行した19人の宦官は全員列候に昇進した。楊震は帝力により改葬され、汚名が雪がれた。

順帝は后に梁妠(どう)を迎えた。曹騰は外戚のために混乱が起きることを不安視したが、舅の梁商は私心のない人物で順帝は好意を寄せた。順帝は宦官に養子を認めた。梁商を大将軍に据えた。ところが、彼の没後、息子の梁冀は董卓以上の悪人だった。曹騰は曹嵩(すう)を養子にした。曹操の父である。梁商が亡くなると、梁冀が大将軍を継いだ。地方に腐敗が広がった元凶は梁冀にあった。心を痛めた順帝は梁冀の恣縦を抑止する工夫をした。しかし、順帝は三十歳で崩御し、2歳の皇太子が即位して第9沖帝となったが、沖帝がすぐさま崩御した。順帝の血は途絶え、梁冀はまだ8歳で操りやすい渤海王を第10代質帝とした。ところがこの皇帝も梁冀の手で毒殺されてしまうのである。