楚漢名臣列伝 宮城谷昌光

2010年6月10日第1刷発行

 

帯封「覇を競う項羽と劉邦、かれらに仕え、乱世を戦った異才・俊才 十人の肖像」

 

目次

楚漢の時代            

張良                      

范増                      

陳余                      

章邯                      

蕭何                      

田横                      

夏侯嬰                  

曹参                      

陳平                      

周勃

 

張良といえば、鴻門之会で項羽・范増が劉邦を弑するのを救った場面が思い起こされる。

范増は、項梁・項羽の軍師だったが、猜疑心の強い項羽に疑われて、最後に袂を分かち、それゆえ項羽が散っていったというのが印象的。

陳余と張耳が刎頸の交わりを結んだ、と紹介されていたが、ここはまだ頭の中ですっきりと理解できていない。

章邯は、大量の囚人を兵士にする策を進言し、囚人軍の将軍になった。

蕭何は、劉邦が皇帝になった際に行なった論功行封で首功とされた能吏。逃げた韓信を追い掛けたのが蕭何だった。

田横は、田儋、田栄、田横の田氏三兄弟として有名。『公乱記』がまさしく田氏三兄弟を扱っていた。章邯に敗れた田儋、項羽に敗れた田栄、劉邦に敗れた田横だが、田横が自害すると大勢の食客が自らの首を斬って後を追った。

夏侯嬰は、劉邦との傷害事件の話が記憶に残る。

曹参は、劉邦が曹氏に産ませた劉肥(後に斉王)を輔佐した。蕭何の下で劉邦と蕭何を支えた。蕭何が逝去すると、相国の位についたが、呂太后が政柄を握っていたので余計なことをしなかったが、人民は守成の為に有能だった。

陳平は、項羽の下で都尉だったが意見が入れられずに劉邦の顧問となり、後に項羽の側近を項羽から切り崩した。特に范増が項羽の下から辞去すると、垓下で勝利を収めた後は韓信の力を削いだ。曹参が歿すると左丞相となり右丞相に昇った。自身を韜晦し呂太后が崩じた後に劉邦の子の一人恒を擁立した。陳平を劉邦に推薦したのが魏無知。陰の立役者である。

周勃は、文帝(劉恒)のもとで右丞相となった。

 

劉邦』『長城のかげ』『公記乱』を読んでいたので、サーと読めた。復習にもなる。