長城のかげ《下》 宮城谷昌光

2010年11月20日発行

 

風の消息

 前半は、劉邦と息子肥の関係や妻曹氏との関係(肥は父劉邦に畏怖に近い感情を抱いていた。母曹氏を愛していた劉邦だったが別の女性を娶ったことから、肥は劉邦を恨むようになる。しかしその後も劉邦と曹氏の関係は続き、肥は母曹氏も恨むようになる)、夏侯嬰との関係(劉邦は夏侯嬰を斬っておらず、夏侯嬰も劉邦から斬られていないというため劉邦は無罪放免になるが、劉邦を陥れるために再び夏侯嬰が獄に繋がれ拷問され劉邦の名を吐かせようとされるが決して口を割らなかったことから夏侯嬰の義侠の名が高まる)、樊噲(はんかい)と周緤(せつ)の関係が綴られている。

後半では、咸陽に旅立った劉邦たちが途中で部下が逃げてしまい劉邦も逃げたため曹参が曹氏と肥に身を隠すよう伝え駟鈞(しきん)に匿ってもらう。時は始皇帝が死に二世が継いだ頃だったがあちこちで謀叛が起きた時であった。沛の県令となった劉邦は沛公と名乗り軍を起こす。項羽と劉邦の戦いは西北の大風に向って陣を敷いた項羽の楚軍が大風のために乱れて勝敗を決した。駟鈞は肥に器量や才能を隠すことは大事に備えるための最も賢いやり方である、徳や力は蓄えねばならぬ、自己をはやくから現わす者は時の流れに摩耗させられるのが常であると繰り返し教えた。

最後に、劉邦の死後、正妻呂太后は肥を毒殺しようとするが幸いに難を逃れる。肥は自分に正直な呂太后とそうでない母曹氏のどちらの生き方がよいのか自問するが答えは見つからず、そのまま病に倒れて死んでいく。

 

満天の星

 山東の薛(せつ)県で名の知られた儒者の叔孫通は県の長官の推薦で咸陽に往くことになったが、待詔(たいしょう)として博士候補に据え置かれただけだった。始皇帝が出席して咸陽宮で行われた宴席での李斯の演説が発端となり焚書坑儒が起きる。胡亥に代かわりすると謀叛が起き大勢の学者が招かれ叔孫通が道理を説いて気に入られた隙に弟子とともに咸陽を脱出した。叔孫通は天下の主権者に仕えつづけている。始皇帝、二世皇帝、項梁、義帝、項羽と主権者はかわっても常に天下の主権の近くにいた。こういう男は叔孫通ただ一人である。が項羽には仕えぬと言って参内しなかった。楚の義帝を殺せし者を撃たんとして項羽に立ち向かった劉邦につくことに決めた叔孫通は劉邦から稷嗣君(しょくしくん)という称号を与えられた。秦の礼儀や法令を撤廃すると規則がなきに等しくなり治世が乱れ頭を悩ませた劉邦は叔孫通から新しい朝儀を作りたいといわれ、わかりやすい礼にせよと命じる。叔孫通は、2人の学者から変節漢と罵られるも、時の変ずるのを知らずと笑って言い捨て、大勢の学者と弟子たちを加え、弟子たちは一人残らず政務官に任じられた。その後、恵帝にも仕え、漢王室の儒者の宗家となった。後に司馬遷は叔孫通について老子の言葉を引き、道は固より委蛇(いい)たりと言った。委蛇とは屈曲しているということである。

 

なかなか含蓄深いお話でした。