市塵(上) 藤沢周平

1996年5月10日発行

 

甲府藩主・綱豊に仕える新井白石。綱吉には綱吉の娘鶴姫しかいなかった。生類憐令は、子が生れないのは前世に殺生を行なった報い、子を得ようと思うなら殺生を慎み生類を憐れまねばならないと説いた護国寺住職の言が発端。しかしその鶴姫が亡くなる。白石は長らく浪人生活を続け、30歳で木下順庵塾に出入りし初めて師を得、後に綱豊に召し抱えられ11年にわたって進講を続けた。棟梁の第1に心がくべき要諦は何かと尋ねられた時、白石は仁慈の御心と答えた。甥の綱豊が江戸城西ノ丸入りすることが決まると、藩の家老・間部にご政道につきかねて申し上げたことをお忘れなくと伝えてくれと依頼。綱豊は家宣と改名。時に富士山噴火のために江戸が灰砂に埋まり救済のために様々な措置を取る。綱吉薨去後、白石は閒部から家宣を補佐していかねばならぬと言われる。家宣が将軍職に就くや、生類憐令を停止する。金銀改鋳で財政難を乗り切ろうとする荻原重秀に対し家宣は明確に反対し別の方法で改善策を考えよと指示する。白石は萩原の数字のからくりを見破り、改鋳策が不要であることを説明する。ローマ人シドッチが屋久島に流れ着き、シドッジから未知の世界の知識を得るためにかつて潜入宣教師として日本に入ってきたシシリア生まれのジュゼッペ、日本名は岡本三右衛門の書き記した書物に目を通してシドッチを訪ねた。