1996年5月10日発行
家宣の死後、間部は家宣の遺言を実行するには白石の力が今後も必要だと説得する。儒者の室鳩巣からは引退勧告の手紙が届く。しかし白石は、聖人の学は今の世に生かさねばならぬ、それが孔子の「春秋」を遺した意味でもあると考え、政治の世界に踏み込んでいった。権力の争奪、立身出世の競い合い、阿諛迎合、賄賂の横行などが混沌として渦巻く欲望の坩堝に儒者が身を置くべきではないという鳩巣とは相容れない。が、同時に権力の快さという人間にひそやかに沁みわたる毒にも思い巡らす。服喪をめぐる問題では林信篤と白石が対立するが、家宣の夫人天英院、鍋松の生母月光院を味方につけ白石が勝利する。瀉の病に度々悩まされる白石。床と厠の往復で起き上がるのも大儀なほどに身体が疲れ、臥した状態が不定期に襲ってくる。4年もの間、囚禁されていたシドッチは切支丹屋敷で雑用をしていた夫妻に洗礼を施していた事実が発覚。大目付の横田が白石に伝えにきた。金銀改鋳に関する書状と書類が商人から白石に届けられた。白石の意見書の弱点を補強するに余りある見事な意見書で改鋳に向かって遂に具体的に動き出す。大奥の女中らが宴会で羽目を外した責任を将軍の生母である月光院に取らせるために反対勢力が死罪に向けた準備を進めていた。間部から将軍の特旨で月光院だけは罪一等を減じるという策への是非を問われた白石。事は成就するだろうが、後々仕事がやりにくくなることを覚悟するしかないと助言。他方でシドッチの処分は地下牢への幽閉に決まった。そして間もなく餓死した。改鋳事業がすべり出した時点で58歳の白石は間部に辞表を提出したが、慰留され受け入れられなかった。改鋳関する妄説を明らかにする者が現れたため白石はその者を厳罰を処すべしと老中に向かって説き難局を乗り切った。8歳の家継が急死し吉宗が二ノ丸に入ると、ようやく白石は間部らとともに辞職する。「折たく紫の記」と名付けた自伝を書きすすめていると、屋敷を明け渡すよう求められ、内藤に新しい家が建つまで、深川に借家をして引越しを始める。いよいよ明日引き渡しとなった前日に大火事が起き、屋敷が焼失する。吉宗に代わり、武家諸法度、朝鮮通信使の待遇改訂等、次々に白石の改革が元に戻されていく。白石は怒りをもって眺めることしかできなかった。失望感の中に、市塵の中に帰るべし、と思い、ようやく失望感はおだかやなあきらめの色を帯びた。畑しかない内藤よりも幾分拓けた小石川柳町に借家を見つけ、来客が訪ねる。次々と書籍を書き上げていく白石。間部は高崎から越後村上藩に移され55歳で亡くなる。
巻末に伊集院静の「野の花」が掲載。フランスの日本料理屋で藤沢周平の小説を目にする。本書の書き出しが、いかにも藤沢らしく、白石と間部という二人の侍の生身の人間をよく表現していることに触れ、京都のある店の花籠の花はいつも市販の花ではなく、山の中で店主が摘んできた花であることを取り上げて、藤沢作品との共通点のようなものに触れている。それが野の花であり、市塵ということなのだろう。