2010年2月1日初版発行
表紙裏「『存続する肉体が保証されない』という極限状態。治療が可能になったハンセン病はすでに恐怖の病はなく、癩文学は過去のものになったが、癩病に直面した北條民雄が描いて見せた極限状況下の人間、その生の哲学は決して過去のものではない。夭折の作家が生きる意味を問う。」
23歳の尾田高雄は病院へ向かった。東京から人里離れた場所にある病院の周囲には何もない。彼はハンセン病だった。今でこそ治療法はあるが、それでも放置すると皮膚が変形したり障害が残る。尾田が病院に着くとスタッフが現れ質問した後、消毒のため湯船に入り、着換えが終わると、病院の付添として佐柄木を紹介された。彼もハンセン病患者で親しみをもって尾田を迎えたが、尾田は嫌悪感を感じた。彼は5年前からいて片目は義眼。尾田は死ぬまでここにいるかも知れないという恐怖感から逃げる決心をし、首を吊ろうとするが、いざ死にそうになると怖くなった。佐柄木も同じような経験をしていた。今は癩病になり切ることが何より大切だという。重態の患者を指して、佐柄木は、あの人達はもう人間ぢゃないといい、いのちそのものなんです、あの人達の『人間』はもう死んで亡びて了ったんです、廃人なんです。けれど、僕らは新しい思想、新しい眼を持つ時、再び人間として生き復へるのです、ぴくぴくと生きている生命が肉体を獲得するのですと言う。そして佐柄木は盲目になるのは分り切ってゐても僕は書きますとも。尾田は生涯忘れることの出来ない記憶となるであろう一夜を振り返へる思ひだった。
なかなか読むのがしんどい小説でした。