2018年11月20日発行
第1章 忍者の実像を知る
・忍者は忍ぶものだから記録に残ってはならず、従来、忍者の学術的研究が進められてこなかったが、隠された真実を追求するのが学問である以上、忍者の履歴書から探そうとした著者。藩士名簿「侍帳」を岡山県はネット公開していることを発見し、そこに忍者の名前が載っているので、忍者の数を数えると、1613年61人→1705年頃17人→1850年頃10人と激減していること、呼び名が変化していることを知る。早稲田大学中央図書館マイクロ資料室で岡山藩士の履歴書を閲覧複写し、読み解いて忍者の任務や俸禄を突き止める。忍者の俸禄は今なら年収900万円。伊賀忍術は忍術書が公刊されているが、甲賀忍術は謎に包まれているため、甲賀忍者の子孫と連絡を取り合う。伊賀者は年収100万円前後。食えない忍者は領地を自分で耕したが、その土地は今の原宿・表参道。岡山藩の忍者は、隣の赤穂藩で起きた赤穂浪士討ち入り事件を心配し、忍者を潜入させて情報を取り重要情報を岡山藩首脳に報告させていた。幕府の甲賀百人組の住所を調べようとして江戸時代の住宅地図「江戸切絵図」を調べるが、百人組としか示されていなかった。がある古文書から甲賀組屋敷絵図を見つけ、神宮球場の外野ライト側が甲賀忍者の射撃練習をしている場所であることを割り出した。
第2章 歴史と出会う
・ちょんまげは、秀吉の時代にようやく剃るようになったが、それ以前は月代は毛を剃らずに抜いていたため大変だった。坂本龍馬が「船中八策」「新政府綱領八策」で二院制議会や陸海軍局の設置など新国家のデザインを描いたとされるが、これらは全て横井小楠の受け売り。横井暗殺の背後にいて捕縛された谷口豹斎が書いた建白の写しを読むと、東京遷都に反対する空気が関係していたらしいことが分かる。幕末の尼太田垣僧蓮月は絶世の美女で男がひっきりなしに言い寄ってきたため老婆の姿になりたいと自ら歯を引き抜き血まみれになって容貌を変えた人。陶器「蓮月焼」を作りそれを売って暮らしたが、贋作だらけだった。調べると蓮月が贋作を公認していたからだった。真贋を見分ける方法は京大ホームページで蓮月焼の失敗作が多数出土し発掘報告書が公開されているので、その失敗作を基準に酷似したものを買う方法を推奨する。国民歴史意識への最大影響者は頼山陽→徳富蘇峰→司馬遼太郎と推移しているが、頼山陽の書は高価。古本市で頼山陽の書状を見つけ、本物か心臓がバクバクしたが、店主から正真正銘の真筆を有り金全部出して買った。皇族旧蔵品の由来を調べると少なくとも数百万円で売れるものだったことが分かり、古物商にそのことを伝えると、古物商は売らず東京都庭園美術館に寄贈すると言った。学芸員が飛んできて「館に就職以来20年間これを探していた」といった。昭和15年帝国議会で命がけの演説をした斉藤隆夫の色紙を露天商から安く買った著書は議事録から削除された斉藤隆夫の演説内容を知り、再会した露天商にお礼を言う。薩摩は知識より知恵を重視した実践的な教育が残っていたからこの地で育まれた政治的判断力でもって新政府を作り迫りくる西洋列強に対処していった。幼少期に仮装してみる頭が鍛えられることは大きい。
第3章 先人に驚く
・天皇の土葬は約360年前の後光明天皇から連続している。犬食の文化は徳川綱吉の生類憐みの令までは日本にもあった。幕府高官の永井尚志(玄蕃)は龍馬の死を考える上での重要人物。暗殺前日にも面会。福井藩士中根雪江の日記「丁卯日記」は当時の政治状況が詳しく書かれており、これからすると、龍馬暗殺の黒幕は会津藩主松平容保と桑名藩主松平貞敬の2人に絞り込んだが、この日記にある政治史の流れを考えると、会津藩、なかでも容保側近の手代木・小野・外島ら会津藩公用方の動きが気になる。経理の歴史は縄文時代からある。食料の配分や貯蔵が生きるか死ぬかの分かれ道になっていたからだ。福沢諭吉の「学問のすゝめ」で「唯文字を読むのみを以て学問とするは、大なる心得違いなり」「文字の問屋と云うべきのみ」「今の学者は内の一方に身を委して、外の務を知らざる者多し」「学者には一人で日本国を維持する気概が要る」と書いてあることに著者は勇気を貰ったとある。
第4章 震災の歴史に学ぶ
・岡山藩池田家に仕えた侍の丹羽次郎右衛門に対し、老練の生駒嘉右衛門は「戦場の馬、数日の駆け引きには、かならず心の丈夫なる馬を用ゆべし」(平時の名馬も戦場では疲労しバテてしまう、心身ともに丈夫な馬にしろ)と言う。この判断は正しく次郎右衛門は生還した。理系の研究者と歴史学者が地震津波を研究する「歴史地震研究会」に入会した著者は、江戸時代以来、5回の地震活動期を経験し、50年か100年ごとに地震活動期が来ていることを指摘し、史料から日本は6回目の地震活動期に入った可能性が高いという。江戸時代の領主が津波の被災地を「潮入り」と呼び、5年も10年も年貢を減免したことを紹介し、今回も10年無税にするくらいでなければにぎわいは戻ってこないという。若狭に津波が襲ったかは昔の文献で決着している(フロイスの地震記事を加筆修正した宣教師クラッセ編『日本教会史(日本西教史)』(1689年刊)や竹中半兵衛の子重門『豊鏡』)。原発の再稼働問題に正しい判断をするのに正確な情報が必要だからその意味で古文書が役に立っている。関東の大型地震には元禄型と大正型があるが、後者の方が狭い。元禄関東地震(1703年)で揺れた時間の長さを調べようとした著書は古文書の内容から時間をストップウォッチで測ると45秒以上揺れたとするものや3分近く揺れたとするものを発掘する。日本では500年に1度、大きな地震が来ていて直前は明応大地震(1498年)。今が500年後の時代に当たる。津波の大きさは明応>宝永>安政の順番だが、宝永地震では立っていられない揺れが10分間続いた。15メートル級の津波が15分以内に海岸部に到達する。新幹線は津波のことを考えずにルートを決めている。
第5章 戦国の声を聞く
・石川五右衛門が実在の人物でその記録が文書に残されていること、その石川五右衛門を捕えた人物がマンガで主人公にもなっている仙石権兵衛だと記録されている。武士の家計簿の主人公・猪山家の甲冑が発見される。
「第5章 戦国の声を聞く」
・直江兼続がなぜ殺されなかったか。西軍につくよう主人に勧めた家老はたくさんいて、全部粛清してたら大変なことになるので、代表格の直江兼続を許すことでバランスを保つ。