2021年5月20日発行
目次
第2章 新選組―テロと粛清の果てに
第3章 長州藩―歴史を動かした三人の男たち
・今さら聞けない、初歩的なところから教えてくれているのが有難い。
・会津がなぜ佐幕か?初代藩主保科正之は秀忠の4男で家光の異母弟にあたるから。3代目より松平姓を名乗ることに。
水戸光圀は、南朝を正統とした。そのため南朝の後醍醐天皇に対抗して北朝の光明天皇を即位させた足利尊氏や江戸幕府を批判的に見る水戸学からは、孝明天皇を無視して開国に踏み切った幕府及び井伊大老はテロの対象となった。幕末の松平容保(かたもり)は佐幕の思いから御三家(尾張・紀伊)が御三家(水戸)を討つのは内乱になるので賛成しかねると述べてバランス感覚を発揮した。幕末に幕府は内憂外患を乗り切りために「将軍後見職」「政治総裁職」「京都守護職」の3つの役職を新設し、後見職は慶喜が、総裁職は松平春嶽が、京都守護職は容保が使命された。会津藩家訓には歴代の家老が血判し佐幕一途の思いが藩風となった。薩会同盟が締結され攘夷激派が京から追いやられる8月18日政変が起き、公武合体派が勝利を収めたかに見えたが、池田屋事件が発端となり第1次幕長戦争(幕府勝利)と第2次幕長戦争(幕府の状況判断の誤りと薩長同盟で長州勝利)を経て、最も血を流した尊攘激派から最も憎まれた会津。戊辰戦争では唯一取り潰されたのが会津。戊辰戦争で最も多くの被害者を出したのも会津だった。
・清河八郎、壬生浪と新撰組、池田屋事件、伊東甲子太郎グループと近藤・土方グループの対立抗争、永倉新八と近藤勇との対立、無血開城と近藤・沖田の死、函館新撰組と土方の死
・毛利家のルーツは相模国毛利荘の大江家(平安時代の貴族)にあり、関ヶ原の戦いで家康の敵となったことから大幅な領土削減のため反徳川になった。幕末に長井雅楽(うた)の航海遠略策と久坂玄随の破約攘夷が対立する中、長州よりも薩摩が中央政界を牛耳ったことから酒井は責任を取らされ、以来尊王攘夷を看板に疾走。吉田松陰、高杉晋作、大村益次郎(散兵戦術)。
個人的には第1章が最も勉強になった。第2章・第3章は復習的意味合いが強い。