蒼天見ゆ《上》 葉室麟

2019年6月10日発行

 

筑前秋月藩藩士臼井亘理26歳。草原に寝転がって晴天を見る夢を見る。藩校稽古館の助教を務めていた。20歳の戸原卯橘、海賀宮門とは弟のように接した。山家宿の原采蘋(はらさいひん)に出会った際、間世楽斎のように春風を以て人に接し秋霜を以て自ら慎むという佐藤一斎の言葉にあるような気性だと言われる。間世楽斎が赦免されていることを聞き、亘理は66歳になっていた世楽斎に会いに行く。黒船来航で世が騒然としている時だった。生垣越しに話をする世楽斎。亘理の覚悟がちと息苦しい、自らに厳しい者はひとにも厳しい、それゆえ敵を作り味方を喪い、それでは何事もなせぬ、と言い、時おり、青空を眺めろ、時に曇り雷雨ともなるが、いずれ青空が戻ってくる、それを信じれば何があろうとも悔いることはない、我らの頭上にはかくのごとき蒼天が広がるのだと教える。

亘理は父の隠居に伴い馬廻役となり鉄砲組を束ねる物頭も兼ねた。35歳で用役に登用され藩政に参画。アメリカから開国を迫られ大老井伊直弼は勅許を得ずに日米修好条約を締結すると尊王攘夷派から猛反発を受け、直弼は尊攘派を弾圧する。これに憤激した尊攘派の水戸浪士と薩摩藩士が直弼を暗殺。安藤正信が坂下門外で襲われた。そんな時代の中、亘理は陽明学の師中島衡平を訪ねては意見を交わし、卯橘と宮門にも国力をつけることを説くが攘夷論一辺倒の二人は亘理の言うことに耳を傾けない。次々に脱藩し命を落としていく(宮門の死に方を読んで、山本有三の『同志の人々』を思い出す。攘夷派同志の仲間を自らの利益にならぬと分かると裏切っていく。信念を貫く者と裏切っていく者を鮮やかに対比した作品を思い出す)。同じく薩摩の者から宮門が殺されたのも同じで、亘理はやり切れない思いを抱く。その時に青空を見よとの世楽斎の教えを思い出し、息子六郎に伝えたいと強く願う。亘理は西洋式兵術を積極的に取り入れようとし、家老の吉田悟助の取り巻きらから西洋亘理なる仇名が付けられる。新撰組による池田屋事件薩長同盟など、時代が目まぐるしく動く中、亘理は執政心得首座公用人兼軍事総裁として京に上った。この間、慶喜は朝廷に大政奉還王政復古の大号令が発せられた。鳥羽伏見の戦い旧幕府軍は薩摩、長州を主力とした軍勢に敗れ、慶喜は江戸に逃げ帰った。朝廷は慶喜追討令を発した。上洛した亘理は大久保利道から、敵は常に味方の中にいる、臼井殿も秋月藩を背負っていく覚悟なら、まず背中から斬られぬよう用心せよ、と忠告する。江戸開城の交渉が始まる中、秋月藩では尊王攘夷を唱える者たちが集結して干城隊が結成された。六郎は亘理の子であると名乗り出ることができなかったことを悩み、母にそのことを告げると、母から父からの教えとして、世楽斎の“蒼天を見よ”との言葉を伝えた。以前六郎に名を名乗れと迫った山本克己が六郎に刀を向けて父を斬ると宣言する。亘理は、家老らの画策から一人京を離れ藩に戻る。帰国した亘理は六郎に自ら世楽斎の言葉を伝える。その夜、親しき者が訪ねて来て宴席がもたれ、亘理も酒を飲んでおり熟睡した。その夜、干城隊が亘理を襲い妻とともに斬殺。平穏だった秋月城下はこの血なまぐさい事件に騒然となった。王政復古の大号令が下り、尊攘派佐幕派の対立には一応の決着がついたと見られている時期の凶行だけに、驚きは大きかった。藩は、臼井家に対し徹底して冷酷なものだった。亘理が自分の才に溺れ、我儘の振る舞いが多く人望も薄かったため、非業の最後を遂げたのも自ら招いたものでやむを得ないとする沙汰を下した。亘理没後の臼井家は六郎がまだ幼いため弟の助太夫家督を継いだ。

六郎は、自分の一生は両親の仇討という一事のためにある、と少年ながら思い定めていた。仇の相手の名前は山本克巳。家中でも聞こえた剣の達人だった。六郎は復讐を誓うが、明治6年2月に政府は仇討禁止令を発布していた。己の為すべきことを見定めるため六郎は上京し、叔父の上野四郎兵衛に身を寄せる。山本克巳は名を一瀬直久と改め名古屋で判事をしていた。叔父の紹介で山岡鉄舟に弟子入りする。憎しみという邪念の心をとき、無心にならねばならぬと諭された上でのことであった。一瀬が甲府に入ると聞いた六郎は、鉄舟に湯治のために暇を申し出て甲府に入ったが、一瀬は東京に行っていたことが分かると、ふとしたことがきっかけで宿の女中の文を連れて共に上京する。