映画は狂気の旅である 私の履歴書 今村昌平

2004年7月5日第1刷

 

目次

割りの悪い仕事-まえがきにかえて

第1章 早熟な都会のお坊ちゃん

第2章 鬼の今平

第3章 常民を撮る、神を撮る

第4章 創造の曠野へ

今村昌平・全作品リスト

親父の横顔―息子から見た今村昌平天願大介

 

・大正15年9月15日、耳鼻咽喉科を開業していた父と母竹節の末っ子として生まれた。小学校は東京府女子師範(現東京学芸大学)の附属に入り、東京高等師範(現筑波大学)附属中学、桐生高等工業学校(現群馬大学工学部)へ進んだ。戯曲を書き始めたのはこの頃。終戦後、早稲田の文学部に入り芝居に夢中になった。三船敏郎が登場する映画「酔いどれ天使」を見て感動して映画監督になることを決意した。松竹大船撮影所の試験に通り入所し、小津安二郎監督の下で助監督の一番下っ端としてついた。小津監督の下で3本つくと、小津さんの演出に不満を持ち小津組を勘弁してもらった。それでも今振り返ると、小津さんには多くのことを学んだ。キャメラ位置一つにしても自らの美意識に従って執念深く最適の場所を探し求め、それでよいと決まれば今度は断固として崩さない。監督はかくあるべしと檻に触れて小津さんを思い出し、その姿勢を肝に銘じてきた。昭和29年に日活に移籍し、宇津さんに次いで2人目の師となる川島雄三がやってきた。31歳で、長門裕之南田洋子が主演する「盗まれた欲情」でブルーリボン新人賞をいただいた。「にあんちゃん」では芸術祭文部大臣賞を受賞した。39歳で独立し今村プロダクションを設立した。「神々の深き欲望」ではキネマ旬報第一位や毎日映画コンクール日本映画大賞、芸術選奨文部大臣賞などをいただいたが、2年越しの撮影がたたって二千万円ほどの借金を抱えた。その後資金難から劇映画を撮れなくなる。テレビ向けドキュメンターを手掛けた。日本で初めての映画学校「横浜放送映画専門学院」を創立し、学院長に昭和50年就任した。11年ぶりに劇映画「復讐するは我にあり」にとりかかった。原作は佐木隆三のノンフィクションで、38年に起きた、西口彰の五件連続殺人を描く。緒形拳を配役した。この作品は役者の力量が発揮され、キネマ旬報毎日映画コンクールブルーリボン日本アカデミー賞などで最優秀作品に選ばれた。映画の出来はシナリオ六分、配役三分、演出一分で決まる。「楢山節考」がカンヌ国際映画祭パルムドールを受賞したのが昭和58年5月19日。2度目のパルムドールをとった「うなぎ」は実話を採用している。井伏鱒二の「黒い雨」を撮ろうと決めたのは弟分の浦山桐郎監督が54歳の若さで急死したのがきっかけである。彼が映画化従っていたのを知っていたからだ。撮影日程半ばで資金が底を尽き、岡山バイオ企業の林原健社長を訪ねて協力を得て乗り切った。