市塵(中) 藤沢周平

1996年5月10日発行

 

潜入宣教師シドッチの訊問を、宗門奉行やオランダ通詞の立会の下、白石が実施する。寒ければ衣服を与える旨伝えるも、シドッチは、宗門の教えの中に、法を受けざる人の物は受けるなかれとあり、食事は生きるために頂くが、それ以上に宗門の教えに背いて着る物まで頂くことはできないとして断る。やり取りしていく中で、シドッチは、逃亡する心配はないので監視の者がゆっくり寝られるようにして頂きたいと申し出る。これに白石が「いつわりを申す男である」と叱責。嘘をついたと言われたシドッチは怒るが、白石が衣服はいらぬと言って宗門の教えを言い立てて人の気持ちを返り見ない者が監視の者を憐れ深げに思いやるのは首尾一貫しないというと、シドッチは着る物を頂戴する、という。シドッチから、世界の地理、天文、国情などを聴き取る。布教目的で潜入したことを認めさせるには意思疎通を十分に行うことが前提だと考えた白石だったが、シドッチの博識ぶりも大したもので、互いに傑物、傑物を知るという感情が通い始めた。シドッチは自らを国の使者であり、密航の府教師ではないと説明した。シドッチが真相を隠していることは明らかだったが、白石はシドッチの弁明に乗って、本国に返すのを上策であるとする上書を作成した。わが国が禁教の方針を変えることがないことをシドッチを本国に返し派遣したローマに知らせることがすべての者にとって有益だと判断したからだった。

続いて朝鮮使節の問題が持ち上がる。林家の所管であるため白石に建議を求められること自体、林家を敵に回すことになるのを承知しながら、言うべきことを言った。武家諸法度の代々の発布、湯島聖堂、南都(奈良・興福寺)訴訟のことについても同様のことが言えた。白石は家宣から絶大な信頼を得て権力を発揮していった。門下の一人伊能佐一郎が妻女と駆け落ちし、市井紅塵の間に生業を求め、ほそぼそと暮らすのが我が性分に相応と思ひ決め候と書置きがあった(これが市塵のタイトルの由来?)。特に国交回復後の韓国使節団の歓待行事は、彼等の内に隠し持っている優越意識に揺さぶりをかけるべく単身で通信使客館に乗り込み、すべての話題に対等に渡り合うだけでなく、海外知識、衣冠儀礼に関する質疑で相手を圧倒する学識を示し、対等の国交関係の確立に大いに役立った。荻原弾劾の書を認めて提出したが、徳なくも才あれば用いざるを得ないとして家宣から一度は却下されるが、間部より家宣が倒れたことから荻原を放置できないとして再提出を促される。