記録をうちたてた人々 クーベルタン・ソープ・ヌルミ・織田幹雄・人見絹江・オーエンス・クン夫人・ザトベック 鈴木良徳著

昭和40年10月第1刷発行 昭和60年6月第21刷発行

 

クーベルタン

 オリンピックの父と呼ばれるクーベルタン。フランスがイギリスやドイツに負けた原因が青少年の教育の違いにあると考えて、フランスにもイギリス人学生のスポーツ・クラブを作ろうとし、オピンピアの発掘を契機にオリンピックの復興を目指し、国際オリンピック委員会を組織し、第1回大会をギリシャアテネで開催。当初アメリカとイギリスは勝ち負けにこだわり仲が悪かったが「オリンピックで重要なことは勝つことではなく参加することにある」という理想を掲げるとともに、オリンピックのシンボル、五輪の旗を考えた。国際オリンピック委員会の終身名誉会長。

 

ソープ

 インディアンとして初めてアメリカ・スポーツ界で活躍。オリンピックで栄光の座を握りながらも、その結末は悲劇に終わった。

 フットボールの有名選手として名を成しただけでなくスポーツ万能であったがゆえに慢心し、オリンピックでも大活躍して世界一のスポーツマンともてはやされるようになる。ところがその後ソープは過去に報酬をもらっていたことが発覚しアマチュア選手でなかったためオリンピック史上から永久に消し去れてしまう。プロ野球選手に転身するが、プロの水に馴染めず事業化に転身。がいつしか酒で身を滅ぼし63歳で心臓麻痺出なくなる。

 

ルヌミ

 オリンピックの金メダル9個、世界記録21回。記録を打ち立てるために生まれ、時計と争って走った、北欧フィンランドの超人。

 ザトベック以前の人間機関車第1号はヌルミ。34歳になっても世界記録を破った陸上競技選手は後にも先にもルヌミだけ(東京オリンピックで世界最高記録を作ったアベベは32歳)。ヌルミは子どもたちに話かける。「スポーツに上達する努力とは、一にも二にも練習です。もう自分は練習なんかしなくっても負けやしないと思ったとき、その人は下り坂にかかっているということを忘れないでください」

 

織田幹雄

 中学生時代から日本記録に挑み、低かった日本陸上競技を世界一流に育てあげた。一記録ごとに、血のにじむ努力にあけくれた。

 

人見絹江

 世界公認記録を作った、最初の日本人。不出生の先覚者。スポーツ開拓のため若くして世を去った。

 1926年の第2回国際女史オリンピック大会でイギリスのガン嬢と優勝争いをし、以来、スポーツを通して友情のつぼみが膨らむ。オリンピックに女子選手も参加できるようになり、アムステルダム大会で女性で唯一参加。初の女子メダリスト。25歳悪性の風邪で急死。

 

オーエンス

 肌の色が黒いというだけでヒットラーから握手を断られた大天才。世をすねて一時はショウにまで出演したアメリカの平和使節

 1935年5月25日、西部競技連盟の陸上競技選手権大会で、1時間15分の間に3つの世界記録と一つの世界タイ記録を出す。ところがこの日オーエンスは背中を痛めていた。ユニフォームに着替えるのも学友たちに手伝ってもらっていた。号令がかかった瞬間、痛みが消え、レースが終わると痛みが戻ってきた。

 

クン夫人

 咲きこぼれるような美少女クンが12年後のオリンピックに参加した時は2児の母。その母が4つの金メダルとオランダ騎士賞に輝く。

 コーチと結婚した後、子を出産し、その後、ロンドン大会(オリンピック)で4つの金メダルを獲得した初の女性。東京大会ではコーチとして参加。「スポーツはとてもすばらしいものだと思っています。でも、スポーツは、やはり人生の一部であり、決して人生そのもの以上には重要だとは思いません」と語る。

 

ザトペック

 5000メートル、1万メートル、マラソンの全てに優勝した、チェコの生んだ人間機関車。彼のスピードは升ばかり、その独自の秘密は?

 ヘルシンキ大会で3つの金メダルを取った。決して天才ではなく、人並み外れた努力を積み重ねた結果だった。やり遂げようと決心したらそれを曲げない意思の強さがザトペックの強さの秘密。1968年、チェコの自由化を求める「二千語宣言」にサインしたために公職を追放された。