天と地と《下》 その2 海音寺潮五郎

2004年3月10日第1刷 2009年8月15日第9刷 令和三年10月

 

裏表紙「領土拡張に積極的な武田晴信と北信・川中島で闘った景虎は初めて敗れた。雪辱に燃える景虎の許へ房州の里見氏から北条氏康の横暴の訴えが届く。小田原城を包囲した景虎関東管領に就任し、上杉の家督も譲られ上杉政虎と名を改めた。そして永禄四(1561)年に、上杉・武田両軍は雌雄を決すべく川中島で一大決戦を企てることに。」

 

景虎は関白を伴い国許へ帰る約束をしたものの、即位式が終ってからに変更した。帰国後、景虎は将軍によって関東管領職を継ぐのを許されたことを発表した。晴信の唆しに応じなくするためであった。乃美がどこにも嫁かぬ姫君として三十歳を越えた。思う人があってどこにも縁付きしないと言われた。景虎は自分のことだと思った。景虎は乃美の笛を聞いた。3度目だった。1回目は栃尾の最初の旗上げの際に討ち取った時、2回目は家督を継ぎ昭田常陸を討ち国内を平定した時だった。椎名康種と神保氏春との所領境目争いが起き、一旦は収まったかに見えたが、神保家の武田との関係が続いていた。景虎の顔に泥を塗った神保に兵を差し向けた。

 

神保は城を抜け出して逃げ去った。魚津城の鈴木大和が寵愛した藤紫午前が捕らわれて景虎の前に姿を現した。直前まで助命を考えたが、妖艶なまとわりつくような目や声音に接して自ら刀を抜き、首を刎ねた。

 

上杉憲政は関東へ繰り出すことを所望した。しかし景虎は武田方への用心を怠るわけにはいかなかった。桶狭間今川義元が討ち取られた報告が入ると、晴信が駿河に手入れすることが予想された。その機に関東出陣を決意した。景虎は関東経営の本拠を前橋に置き、北条氏との戦いに臨んだ。憲政と前嗣が前橋に到着すると、古河公方足利義氏は不安を感じ、小田原に逃れた。景虎は小田原を攻め、鎌倉鶴ケ岡八幡宮管領就任式を行い、名を政虎と改める。この時32歳。乃美が血を吐き重体との知らせを聞き、定行を帰した。

 

信玄が川中島に本陣を据え、春日弾正忠昌信を先手として犀川を越えさせた。乾坤一擲の覚悟を決めて一切の作戦を立てた後、病床の乃美を見舞った。政虎は、乃美に己の秘めた想いを初めて伝え、回復した後に妻に迎えると告げた。川中島に到着した政虎は、死地に飛び込み、信玄を誘い出すという危険な作戦に出た。

 

政虎は妻女山の頂から川中島を見おろして茶臼山の信玄の陣所を遠望し望み、信玄も茶臼山の頂から川中島を見おろして妻女山の政虎陣を遠望していた。妻女山は完全に死地になったわけで動きが政虎陣に見えるべきはずなのにそれが見えないため信玄は不安になった。信玄は武田方十個隊で妻女山を襲撃するとともに本隊を埋伏させて政虎を待ったが、眼前に予想だにしなかった政虎の部隊が出現して驚愕した。長引けば妻女山に向かった諸隊が駆けつけ政虎敗戦になるため、その前に本陣を突き崩そうと決戦に挑んだ。政虎はただ一騎、真一文字に本陣めがけて信玄の面前に乗りつけ斬りつけた。信玄は軍配うちわで受けたが、肩を切りつけられ、信玄の中間がしらが突いた槍が馬にあたって走り去った。景虎は打ち漏らしはしたが満足だった。凱旋した政虎の耳に定行は乃美の死を伝えた。信玄に斬り込んだ時と同時だった。関東管領職、上杉の名跡など、むなしい限りではないか、俺を置いて死んだのか。若々しい涙があとからあとから伝わった。