「失敗」の日本史 本田和人

2021年3月10日初版 2021年5月20日3刷

 

裏表紙裏「あの東京大学史料編纂所本郷和人先生が、歴史を変えた「失敗」をピックアップ! 元寇の原因は完全に鎌倉幕府側にあった? 生涯のライバル謙信、信玄共に跡取り問題でしくじったのはなぜ? 光秀重用は信長の失敗だったと言える? 日本史を彩る英雄たちの「失敗」を検証しつつ、そこからの学び、もしくは「もし成功していたら」という“if”を展開。失敗の中にこそ、豊かな”学び”はある!」

 

目次

第1章 鎌倉時代の失敗

第2章 南北朝時代の失敗

第3章 室町時代の失敗

第4章 戦国時代の失敗

第5章 安土桃山時代の失敗

第6章 関ヶ原の失敗

 

平清盛の失敗は、京に近すぎたこと。それを見て源頼朝は鎌倉に幕府を打ち立てた。もっとも清盛が武士のステータスをあげるのに京で登り詰めることは必要でもあり、失敗というのも酷。

義経の失敗は、軍事的天才であっても政治音痴だったから。直接朝廷から官位を貰ったことで、主従関係を理解していないと頼朝に見られてしまったことにある。

・頼朝の失敗は、子供達の教育を失敗したこと。実朝も京都に近すぎたのが殺された原因。もっとも実朝もある程度は分かっていたかもしれない。結局裏で北条義時がいたために滅びる運命だったかも。

後鳥羽上皇の失敗は、主従制というピラミッド構造になっている武士社会を理解していなかったから。西の武士は上皇についたが落下傘的にやってきた存在だから地元に根を下ろしておらず、数を動員することができなかった。

北条時宗の失敗は、元寇を命がけで退けた武士たちに自らの土地を割いてでも分け与えなかったから。北条氏のこの専制的な姿勢が原因で武士たちの支持を失った。

北条高時の失敗は、高時一人の失敗というより、積もり積もった北条本家の失敗といってよい。後醍醐天皇は新しいことをしたわけでなく旧来のやって来たことを執念深くやり続けたことで尊氏が現れて幕府離反を決めたら1か月で鎌倉幕府は潰れた。

後醍醐天皇の失敗は、中継ぎとして即位しただけなのに、自分の息子に位を譲って自らは上皇となり権力を維持することに固執したため、大覚寺統は滅び、持明院統に降伏するしかなかった。

・北条顕家の失敗は、北陸の新田の援軍と合流すべきだった時に援軍を拒否したことにある。このため足利軍と単独で戦い、青野ヶ原の戦いで足利軍に勝利するものの京に行けなかった。もっとも足利軍は関ヶ原を突破できなかったのだから足利軍が勝利したと考えてもよいのではないかと著者は考えている。

北畠親房の失敗は、朝廷の伝統・儀式を弁えない武士の(三種の神器がなくても即位を実行してしまうという)出鱈目ぶりまでは見通せなかったことにある。

・春屋妙葩(しゅんおくみょうは)の失敗は、徒弟院制度を始めたことにある。この禅宗の世俗化が日本の哲学不在に結び付いたのではないか。

斯波義将の失敗は、尾張を捨ててでも四国に領国を持つよう、早々に動くべきだったのにバランサーの立ち位置に満足してしまったことにある。

三宝満済の失敗は、優秀な義教を第六代将軍に就けてしまったところにある。上に立つ人は茫洋としているくらいでちょうどよく、その方が権力構造は安定する。

足利持氏の失敗は、世襲の世にあって将軍になろうとした身の程知らずにある。

畠山持国の失敗は、甥を最初後継者と定めたのに、後で息子に継がせたくなり、二つの勢力に分裂したところで亡くなってしまったことにある。。これが応仁の乱の引き金になる。

上杉謙信の失敗は、景勝と景虎の二つに上杉家を分裂させたことにある。信長のように当主の座を譲り渡し後継者を決めた上で後継者問題が起こらないようにしたうえで自ら意思決定を下せばよかった。

武田信玄の失敗は、せっかく港を手に入れて交易で鉄砲を採用することができたのにそれをしなかったことにある。もう一つは信濃国というまとまりにこだわり過ぎたところにある。信長のように国にこだわらず必要とする地域を手に入れていくべきだった。

今川義元の失敗は、桶狭間の戦いで負けるにしても命まで失ったことにある。

武田勝頼の失敗は、信玄でも落とせなかった境目の城(高天神城)を落とすという成功体験が仇となり、これにこだわる余り、放棄することが出来なかったことにある。

北条氏政の失敗は、秀吉に頭を下げることができなかったことにある。

浅井長政の失敗は、同盟を結んだ信長が背中を見せて朝倉を攻め入った時に、今なら信長を討てる、打てば一気にのし上がれると信長を裏切ったところにある。信長はいちは焼く戦場を離脱したために長政は滅びるしかなかった。

織田信長の失敗は、才能一本で抜擢人事を行ったところにある。従来のやり方でやっていれば安定する代わりに波風も立たないが、才能重視になれば当然自信家が現れて裏切者が出てくる。

豊臣秀吉の最大の失敗は、家康を放置したことにある。なぜ家康を放置したのかは謎である。朝鮮出兵ももう一つの謎である。秀頼に継がせるために秀次を殺したことは愚策以外の何物でもない。

石田三成の失敗は、雑魚と言っていい京極高次が寝返った際にエース級の立花宗茂と小早川秀包を投入したことと、島津義弘が僅かな兵しか連れてこず、しかも気持ちよく戦うと思う事が出来ない状況にあったことにある。その根本原因は三成には人間も戦も見えていなかったところにある。

京極高次の失敗は、寝返った後で、辛抱できずに降伏してしまったことにある。あと1日辛抱していれば全く違っていた。「蛍大名」と呼ばれた高次。

上杉景勝の失敗は、前田利家のように理不尽な家康に土下座することができなかったこと、東軍の背後を付ける時に北を攻め、しかもグダグダしているうちに西軍が負けてしまったことにある。

伊達政宗の失敗は、自己PRの力に長けていたものの、実は戦ベタだったことにある。

毛利輝元の失敗は、器もなく世を見通す力もないのに余計な動きを積極的に行い、お家取り潰しのピンチを招くが、広家という優秀な部下がいたことでギリギリのところで助かった。