天と地と《下》 その1 海音寺潮五郎

令和3年10月

 

裏表紙「領土拡張に積極的な武田晴信と北信・川中島で闘った景虎は初めて敗れた。雪辱に燃える景虎の許へ房州の里見氏から北条氏康の横暴の訴えが届く。小田原城を包囲した景虎関東管領に就任し、上杉の家督も譲られ上杉政虎と名を改めた。そして永禄四(1561)年に、上杉・武田両軍は雌雄を決すべく川中島で一大決戦を企てることに。」

 

京に帰った景虎は三条西大納言から琵琶を朝嵐と名づけられ、大徳寺の宗九から宗心という法号を授かった。春日山に帰国した景虎は、一向宗の本誓寺の超賢住職と仲直りするために直江実綱と吉江織部助景資を使いに出した。上洛して不在中に誘惑の手を北条の地に伸ばした晴信のやり方が薄汚く感じて嫌悪した。が同時に乃美が嫁に行くと聞いて沈み込んだ。北条高広が謀叛の旗を挙げたが、松江が高広に降伏するよう説得した。景虎は信州に出陣した。晴信は勝頼を生んだ諏訪御前を寵愛したが諏訪御前が労咳に病んだため、決戦の覚悟がなかなか決まらなかったが、諏訪御前の体調が回復すると出陣した。鼎立しての対陣が続いた。諏訪御前の体調悪化の知らせを受けて晴信は今川義元に仲裁を求めた。義元は老臣を遣わして景虎を説かせた。

 

晴信と景虎は和議に応じた。小競り合いが国内で続いた景虎は隠遁し剃髪して僧形となり春日山を出て京に向かった。松江と弥太郎が追い掛けてきた。景虎は宝蔵院で長期滞在した。政景が景虎を説得に来た。晴信が越後に手入れしているとの噂があると聞いた景虎は隠遁を思い留まり、春日山に帰った。春日山に大隈備前守朝秀と城織部正資家の2人が伺候しなかった。武田に篭絡されていた。

 

晴信は善光寺の北方の葛山も切り崩しにかかっていた。それ以外にも水内郡の香坂筑前守、高井郡の井上左衛門尉等も味方に引き入れていた。晴信は手をもぎ足をもぎする戦いを繰り返し、敵の主力を弱らせて最後のとどめを刺す戦いをする。景虎の主力の集中する善光寺平から飯山地方には出ず松本平に出た。これを知らない景虎善光寺平に出た。戦機は徐々に熟し上野原の合戦となる。武田軍が全軍川を渡り、横山城から東北4キロにある戸神山を占拠し、ここと飯山城と大倉城との連絡を断ち切る作戦に出た。その作戦を読んだ景虎は政景に武田本陣を突く戦いをせたが、晴信は座ったままで姿をみせず金鼓の合図だけで士卒を手足のように自在に動かして戦っていた。本誓寺の竣工に伴い晴信と和を講ずるために使者を送った。晴信はこれを拒否した。再び川中島に越後の諸隊は集結した。再び膠着状態になり義輝将軍から和睦の為の使者が来た。晴信は条件を出して和議に応じることにした。

 

景虎は上洛中に晴信が出張せぬように求め、晴信はこれに応じた。長期に及ぶ可能性があるためその間は政景に頼んだ。

 

景虎は義輝将軍に謁した。その後、関白が越後の土になりたい、連れて行ってくれと頼んできた。帝に拝謁した。従四位下近衛少将に任叙された。晴信が再び国境を越えて侵入してきた。再び関東管領職を授ける話が出た。