新三河物語 中 宮城谷昌光

2008年8月30日発行

 

今川の拠点は吉田と田原である。吉田城の東に位置する二連木城の密使が家康を訪ねて出陣を請うた。家康は酒井忠次に吉田城と東三河攻略の主将に任命し、田原城攻略を本多広孝に命じた。浜名湖の東の引間城、懸川城を含めて家康の構想は胸裏にあった(戦場往来)。

忠世は侍大将に任じられ、大久保党の党首になる。遠州遠征に向かった家康は、引間城に入り、懸川城に近づいた。懸川城は難攻不落だったが、今川氏真と和睦することで懸川城を得た(遠州の城)。

天竜川を越えて忠勝の隊は武田の伏兵に遭遇したが、信玄の狙いは二俣城にあり、上洛はないと家康は断定した。二股城は落ち、信玄は二俣を取るだけで終わった(武田の烈風)。

武田軍に大敗した。新蔵(忠寄)は討死した。忠世は鉄砲を集めて出撃した。信玄は野田城を落しあぐねた。菅沼定盈は四百余の兵で三万余の強兵を足留めさせた。信玄が死に、勝頼は長篠城を囲み、南下して吉田城に迫った。家康は酒井忠次に武田軍を邀撃させた(長篠合戦)。

信玄の防衛主義を軽視した勝頼は、甲州を出て進軍した。家康は忠世に光明城を預けた。忠世は常に平助を随えて動いた。二俣城を6か月護り続けた依田右衛門佐信蕃(しげ)を忠世は快男児と見て、家康に委細を伝えて開城勧告を行ってもらった(蝶と餅)。

勝坂城で平助は敵の槍を脇挟んだまま踏み込んで左手で斬った。信康の処遇を信長は家康に任せられた。信康は自害した。平助は岡部丹波守長教を斬り倒した(殊勲の平助)。

平助は武功に無頓着だった。武田家を滅びした信長は池保に駿河一国を授けた。滝川一益には小県と佐久のほか上野一国を授けた。信長が本能寺の炎の中に消えた(波瀾の歳月)。