天と地と《上》 その2 海音寺潮五郎

令和元年8月

 

虎千代を見るたびに似たところがないと考える為景の胸から疑惑が消えない。袈裟から愛おしいと思っているように見えないと一度だけ言われた。袈裟は虎千代を溺愛した。虎千代が4歳の時、袈裟が高熱を出した時、虎千代は凄まじい殺気を漲らせて周囲を睨みつけた。袈裟は25歳で急死した。虎千代はこの時からいつも物思いにふける憂鬱げな少年になった。暴れ馬を手なづけた野良着の女松江を為景は城中に召した。立ち振る舞いを改めようとしなかったが、虎千代が松江を気に入った。虎千代は松江の言うだけは聞いた。松江は怪力の持主だった。為景の身辺を守らせるための侍妾となった。為景が虎千代のために選んだ傅役は金津新兵衛といった。虎千代は松江が父に奪われたと思い、ある時粗暴な振舞いをした。為景は十日の窮命を命じた。虎千代は一層心を許さなくなり、新兵衛だけに口をきいた。為景は盗賊の首を虎千代に持ってくるよう命じた。虎千代は重い首を引きずって持ってきた。ところが為景は笑みを含んだ顔が見たいと言ったのに引き摺ったために顔がつぶれていると咎めた。虎千代の顔から誇らしげなものが消えた。7歳になった虎千代のいる住いに景為は初めて前ぶれなく訪れて、母の菩提のために出家せよと言った。翌日虎千代は曹洞の春日山林泉寺に入った。和尚は虎千代が出家に向いていないと述べ、新兵衛も同じ意見だった。和尚は四書の素読と手習を厳しく仕込み、虎千代は2か月で四書を暗誦した。しばらくして和尚は虎千代を城に送り返した。

 

虎千代が城に送り返された為景は、虎千代への不機嫌をことごとにあらわすようになった。松江だけは為景の態度に一言した。7歳で元服させて喜平二景虎と名のらせた。養子に出そうとするが、頑なに拒まれたため、城から追い出して金津新兵衛の屋敷に預け、さらに加地家への養子ができず面目が立たないことを理由に勘当を申しつけた。栃尾の本庄慶秀が引き受けることになり、春日山から米山に移った。翌年、為景は宇佐美定行と共に兵を率いて越中に入り、放生津城を攻めた。城は落ち、乱暴を働く者に松江は怒りに燃えた。松江が助けたのは春と秋の未亡人達だった。柿崎弥二郎の下に送った。豪族らが失地回復のために一揆を起した。敵を見くびり不用意に放生津に向かった。百姓一揆を思い油断した為景は落とし穴に墜ちた。為景が討ち取られ松江は激怒した。松江は蒔田主計に生け捕られた。蒔田は主君の神保左京進に妻に娶りたいと申し出た。ところが松江は逃げ出していた。長男晴景が喪主となり葬儀が営まれた。景虎は勘当されていたため参列が叶わなかった。晴景が跡を継ぐことに同族の長尾俊景が反対した。

 

俊景は自らがなりたかった。これに宇佐美定行が一言した。器量ものがいない場合もあるから弾正殿でよいのではないかと。弾正(晴景)が守護代に就任した。俊景は1年後兵を挙げ反乱を起こした。俊景は旗上げの血祭に弾正の末弟の首を取れと命じた。新兵衛の弟新八はいち早くそのことを慶秀に伝えた。景虎は一人で慶秀の屋敷を出た。栖吉の城に子どもを遣わし「三条から軍勢が参ります」と言わせ、自らは乞食の服装を纏った。景虎と間違われた百姓の子倅の首が討ち取られた。景虎春日山に帰り金津新兵衛と再会した。晴景はすんなり聞き入れた。俊景の挙兵に応じる豪族が多く立ち上がり、越後は分裂状態に陥った。松野小左衛門が三の丸内の昭田常陸介の門番を訪ねた。晴景が愚将である以上、晴景を推した昭田に戈が向かうのは明らかだと説き立て、俊景に内通せよと説得した。夜更けまで酒宴していた晴景は謀叛の大将が昭田と聞いて茫然自失した。景虎の初陣であったが金津は退かせ城内の床下に隠した。景康も景房も討ち取られた。新兵衛は景虎を城外に連れ出そうと動いた。