天と地と《上》その1 海音寺潮五郎

令和元年8月

 

裏表紙「戦乱の続く越後の国。守護代長尾為景を父とする虎千代は、幼くして母を失し、父に故なくして疎んじられた挙句、養子に出されるも、忠臣金津新兵衛や百姓出の娘松江らに守られて武将の子として成長していく。天文五(1536)年に元服、喜平二景虎と名乗った。後の上杉謙信である。海音寺潮五郎、不朽の名作が文春文庫に遂に登場‼」

 

越後国守護代長尾為景は63歳。昨年4度目の妻を娶った。新しい妻は城主長尾肥前守顕吉の娘で、年は二十歳。為景は娘(袈裟)の美しさに惹かれ、先方は政略のためだった。嫁いで3月目に身籠って3か月と打ち明けられ、早すぎると思い、俺の子ではないかも知れないとの疑惑が出て来た。証拠は何もない。若君が無事に生まれた。越後関東管領の一つである山内上杉氏の分国で、長尾家はその家老の家柄であった。20年程前、当時の守護は上杉房能(ふさよし)だったが、暴政で皆を苦しめたことから、越後守護職には定実が任じられ、為景が輔佐することになった。宇佐美定行は反抗の色を立て、房能の兄である関東管領上杉顕定に働きかけ、合戦が始まった。一時越後は顕定のものになったが、為景はよく耐え顕定を討ち取り、顕定の養子憲房を顕定の跡に立て管領職を継がせて和睦した。宇佐美定行にも妥協の手を伸ばしたが、宇佐美は敵対の態度を捨てなかった。柿崎弥二郎は越後の屈指の大賊で、定行と会った。定行は弥二郎を引き込もうと、為景方で仰いで上州白井の上杉憲房君はニセ管領であり、為景方に与して滅亡することがないよう口説いた。弥二郎は熟考の上、去就を定めたいと返答するにとどめた。上条の上杉定憲の家来毛蓑四郎左衛門の家来が弥二郎の下に書面を持参した。弥二郎が恩賞を確認すると、十か郷をあてがうとのことだったので、請書を認めて手渡した。弟の弥三郎が弥二郎を訪ねてきた。話をしている最中、曲者がいたのに気づいた弥二郎は手裏剣を投げ付けた。曲者の服部玄鬼は為景に報告した。為景は弥二郎が敵方についたのに衝撃を受けた。為景は玄鬼を呼び出し密命を与えた。

 

為景は俊景らを北越後の討伐に遣わし、上田に居住する弟房景とその子政景も後詰として行くよう指図した。為景自身も二千の兵を率いて城を出た。上杉方では先陣に風間河内守、二陣に弥三郎、三陣に弥二郎ら、四陣が本陣となり、上杉定憲を擁して豪族が控えた。長尾勢は先陣、二陣と突入した。弥二郎と房景がぶつかり、互に巧みに防ぎ勝負は決しなかった。房景はなだれかかった。が新手の宇佐美勢が繰り出してきた。いでたちを見ると定行のものであった。それまで休養していた宇佐美勢は鋭気に満ちていた。定行の軍勢はまっしぐらに為景の本陣めがけた。為景の本陣が破られた。為景についていた豪族らのうち、上条の上杉定憲に降伏をひそかに送るものが増えた。玄鬼が再び戻ってきた。為景から常陸介宅に運ぶよう指示された。為景の長男晴景の小姓同士の男色のもつれから喧嘩が起きた。為景は喧嘩両成敗の古法を守り、生き残った小姓の腹を切らせるよう晴景に命じた。常陸介宅には春と秋という17,8の2人の娘がいた。玄鬼が京のゲゼンから百両で求めた女だった。為景の寵愛を受けている金津伊豆守(常陸介の二男)から遣わされた使者が弥二郎を訪ねた。弥二郎は弥三郎を連れて真言宗寺に出掛けることにした。そこにいたのは春と秋だった。

 

金津は弥二郎が二人の虜になったのを見てほくそ笑んだ。為景の味方になってくれるよう金津が言うと、弥三郎は兄の心を蕩かそうとした金津に激しい口調で切り込んだ。が次に目も眩む財宝の山が目の前に積まれ弥三郎も回りの物が見えなくなっていた。弥二郎が2人の女を所望し、金津は味方に引き入れることに見事に成功し、誓紙を取り交わした。房景は弥二郎と相まみえた。弥二郎は腕を怪我した。為景は弥二郎が出て来たことに衝撃を受けた。約束を違えるつもりではないと不安になった。為景が密約のことを打ち明けると、房景は弥二郎に挑みかけたことを反省した。上杉方は軍議を開き、明日決戦に出ることに決めた。先陣は弥二郎が出ることになった。宇佐美が傷のことを心配したが、弥二郎は掠傷と笑った。弥二郎は違約に気を咎めたが、貰ってしまった以上、返さなければそれまでだと思っていた。軍議に参加しなかった弥三郎に弥二郎は先陣になったことを伝え、形勢次第で違約するか決めるというと、弥三郎は納得した。ところが弥三郎とのやり取りを聞かれてしまっていた。弥二郎は万事は明日の合戦でご覧戴くでござろうと書面に認めざるを得なかった。弥二郎は翌朝に傷が痛み出したために先陣を代えて頂きたいと申し出た。戦が始まり、弥二郎は約束を守り、上杉方に火をかけた。弥二郎は前に為景を離反し、今度上杉を裏切って為景に味方したため、その無節操さに皆嚇怒した。為景が弥二郎に恩賞を与えるというと、為景は感激した。上杉定憲は戦場を離脱して逃げ出した。為景は定憲を討ち取れと命じた。弥二郎は定憲を追い掛け、定憲の首をあげた。さすがに宇佐美の陣も動揺した。弥二郎は褒賞を与えられ、柿崎和泉守景家となった。為景は関東管領上杉憲房を利用して和議を目論み、定行も管領の仲裁とあって拒むことが出来ず、和議は成った。