いのちなりけり 葉室麟

2011年2月10日第1刷 2014年4月15日第9刷

 

隠居した水戸光圀は、大名や旗本を招き、能「千手」を演じた。その直後、中老藤井紋太夫を手討ちにした。この時、水戸家の奥女中になった38歳の咲弥は奥女中取締として動転することなく処理したため、光圀は咲弥の胆力に感嘆して、翌日咲弥の夫を呼び寄せようとした。水戸には佐々宗淳、通称介三郎と安積覚、通称覚兵衛という学者がいたが、これが後に「助さん、格さん」と称された。鍋島藩島原の乱の際、鎮定に派遣されたが軍令違反で原城一番乗りを果たした。抜け駆けを糾問された時、水戸家に取成して貰ったため、水戸徳川家に出入りし出した。光圀は小城藩主鍋島元武に書状で「この際、御家の禍根を断つべし」と伝え、咲弥の許には「春ごとに花のさかりはありなめどあひ見むことはいのちなりけり」との和歌が記された書状を届けた。

場面が変わる。小城藩馬乗士七十石の家の部屋住みの雨宮蔵人は、周囲から凡庸で、角蔵流だけが唯一の取り柄だと思われていた。目薬を作りそれを売るのを内職にしていた。父の茂左衛門は12年前に家中筆頭の天源寺刑部から些細なことで咎めを受けて蟄居した年に亡くなった。刑部の一人娘咲弥は前夫が急死し出戻ったが、天源寺家の跡取を早く欲しがった父親が蔵人を見込んで婿とした。周囲は、蔵人よりも、祐筆役の深町右京が似合っていると言うが、刑部は刑部の才能を見抜いていた。鍋島家はもともと龍造寺家の家臣で、龍造寺隆信の敗死後、秀吉に取り入り嫡男政家を隠居させた。五歳だった龍造寺高房を当主にし、鍋島直茂による家政の二重支配を経て、直茂が肥前国主となった。祝言を挙げると、咲弥は前夫が和歌を嗜み、西行の「願わくは 花の下にて春死なん その如月の望月のころ」の歌を好んだと述べ、蔵人の好む和歌を聞きたいと言い、蔵人がこれぞと思う和歌を思い出されるまでは寝所をともにしないと告げて、寝所を暫く一緒にしない日々が続いた。佐賀城内広場で行われた鎧揃えの際、藩主の世子綱茂に矢が射かけられる事件が起きた時、蔵人は世子の前に飛び出て鎧で防いだ。藩主の前で矢を斬り落としたのは右京だった。蔵人は参勤交代の供として出府した際、小城藩世子の鍋島元武から、綱茂に矢を射かけさせた刑部の始末を命じられ、世子への射筋の見極めが出来たら命に従うと約束した。刑部は島原の乱鎮圧で軍功を挙げた者の藩の処遇に永年怨恨を持っていた。右京は、いつの間にか咲弥に悲恋の想いを抱いていたので、天源寺家に行かないようにしていた。そんな折、藩主光茂から京の御歌書役の内意を受ける。光茂は古今伝授の中でも歴代天皇に行なわれる「御所伝授」を受けたいと願った。光茂は三十歳の時に歌人として名高い中院通茂の門弟だった。同時に蔵人殺害の密命も与えられた。参勤交代で蔵人が江戸から帰国すると、刑部が斬られ、蔵人が行方不明になったため、蔵人の犯行と考えられた。蔵人はその後、儒学者石田一鼎に身を隠し、小城藩を出奔する。蔵人を追い掛ける右京は、蔵人の父が咎めを受けるきっかけとなった咲弥の迷子事件の時に現れたのが右京でなく蔵人であることを咲弥に伝えた。蔵人は一鼎から聞いた熊沢蕃山(ばんざん)に岡山で会い、湊川の河原で右京と咲弥を待った。2人が現れ、仇討ちで斬られるつもりでいた蔵人だったが、右京が刑部殺しは蔵人でなく自分が命じられたことであることを明かした。そして蔵人は刑部が自害するつもりであったことを教え、自らが刑部殺しの罪を被り右京が咲弥の婿になることを望んだ。勝負がつく前に助さんこと佐々介三郎宗淳が現れ、咲弥は水戸家預りとなり、奥女中として仕えさせ、 光圀の『大日本史』編纂のために建てられた彰考館の学者の世話もさせた。四代将軍家綱は病床にあり世子がなかったため、京から親王将軍を迎える案もあったが、老中堀田正俊は光圀の協力を得て綱吉を推し、五代将軍綱吉が誕生した。蔵人は円光寺で咲弥に返す和歌をひたすら求めて学び続けていた。蔵人は蕃山から託された書状を中院通茂に届けると、書状には蔵人を天下の為に用いて欲しいとあった。蔵人は中院邸の警護を務める傍ら、書庫でこれがわが心だと思える和歌を探し続けた。堀田正俊が城内で刺殺されると、柳沢保明が綱吉側近として暗躍し始める。

再び光圀が能「千寿」を舞う場面に切り替わる。光圀が藤井紋太夫を刺殺したことを世間がどう受け止めるか気になっていた。大日本史編纂事業にも影響が出かねなかった。蔵人は早飛脚から書状を受け取り、江戸に向かった。自らの口で咲弥に歌を伝えるためだった。途中で4度襲われても全て乗り越えて咲弥のいる寛永寺に向かった。佐々介三郎宗淳と安積覚兵衛が待ち受けていたが、その前に蔵人は全身血みどろの姿になっていた。その姿で水戸の家臣の前に現れ、蔵人は自らが見つけた歌「春ごとに花のさなりはありなめど あひ見むことはいのちなりけり」を咲弥に詠じると、崩れ落ちた。病床の光茂の下に古今伝授の秘巻がもたらされた。死後、これをもたらした山本神右衛門(右京と共に御歌書役となった小小姓の山本市十郎)は山本常朝と名乗り、彼の下に田代陣基が7年間通い、常朝の話をまとめたのが『葉隠れ』である。武士道の他に、常朝は恋についても語っている。

「恋の至極は忍恋と見立申候」

 

つまるところ、雅とはひとの心を慈しむことではあるまいか。

ひとが生きていくということは何かを捨てていくことではなく、拾い集めていくことではないのか。