最悪の将軍《上》 朝井まかて

2020年11月20日発行

 

4代目将軍家綱の次の将軍は、弟綱吉ではなく、甲府藩主松平綱豊が有力だった。綱誠の間家綱が病に伏している中、次の将軍を決める老中の話し合いの最中、老中酒井は、嫡男のいない綱豊では甲府藩お取り潰しとなるため、尾張綱誠は相応しい、鎌倉に習い、中継のため宮将軍を迎えるべきであると説く。これに対して、新参の老中である堀田が、綱吉を将軍にというのが御意であり、病床の家綱からの書状もあると述べ、これに反対する老中酒井を抑え込み、水戸藩主光圀公も堀田に賛意を示し、綱吉が次代の将軍となる。綱吉は、文を以て、真に泰平の世を開く決意を家綱に誓う。

綱吉は、喪に服す期間を過去の慣例より長く設けた。それ以外にも過去のやり方と訣別して武を払い文を以て世を治めるという信念を貫いて異例の政を断行し続けた。綱吉は言葉が美しいことを大事にした。言葉が糸となって人と人を結び、かかわりを織り成すと考えていた。徳松に大納言の官職の打診があったため綱吉は正室信子に相談すると断った方がよいとアドバイスされ従った。綱吉が第六代を綱豊に禅譲すると決めている以上、乱れの元になることはせぬ方がよいとの考えからだった。その徳松が5歳で亡くなった。綱吉は武家諸法度を改めた。第1条は「文武忠孝を励まし、礼儀正しくすべき事」と定めた。従来の第1条は「文武弓馬の道、専ら相嗜むべき事」であった。信子に対し、余は命の重さをこの世に取り戻すと誓った。堀田に凶事が出来した。