魚の棲む城《下》 平岩弓枝

2014年12月10日発行

 

魚屋十兵衛の七星丸が江戸を発ち蝦夷へ向かう。新太郎は武士ではなく十兵衛の下で海の世界で生きたいと願い、意次や兄にそのことを告げる。大奥へあがったお登美は一橋家の治済に見そめられる。大火が江戸を襲い、改元して安永元年となった翌年、お登美が男児を出産。後の家斉である。直後、意次の弟意誠が死ぬ。

安永三年。将軍家治は田岡家の松平定信の物言いに激怒する。将軍家治の嫡男家基に万一のことがあれば自分はそれに代わる者だから、他家に養子に迎えたいと言われてもできないと話したことが家治の耳に入ったからだ。田安家は先代家重の時も将軍の座を狙い、家重から睨まれており、家治はその父の心を知っている。一橋家の思惑通り、田安定信は、将軍家のお声掛かりとして、白河藩に養子に行く。家治から言われていた相良での城造りを再開する。城を湊につなげ大海につなげたい、海からやってくる魚達のよりどころとなるような城をつくりたいと龍介に話す。世子家基が鷹狩りにいって風邪を引いて急死する。

安永九年。意次は家治の許しを得て二十余年ぶりに相良へ国入りした。将軍のお声掛かりで時間をかけて城を作る。築城のために領民を苦しめてはいけないというのが意次の考えだった。意次は蝦夷を詳しく調べさせた。また龍介には、御用船が商売をして何がおかしい、海の向こうから交易の船がやってくる、見栄を捨てて、実を取る、国の役に立つことは何でもするとの決意を披歴した。龍介は意次の志を聞いて、周囲が破天荒なものとしか受け止められないと空恐ろしくなったが、十兵衛や新太郎は驚く顔をしていなかった。蝦夷の実情を新太郎から聞くと、おろしやの商人と交易を行い、抜荷を働いていると告げられた。国入りの翌年、将軍家治の後継者として一橋家より長男を迎え、西の丸へ入って家斉と名乗る。お志尾が一橋治済の寵を受けて産んだ子であった。意次は、印旛沼開拓、利根川治水など、着々を手を打った。

天明元号が変わってから大雨と冷夏が続き、米が不作となる。その中、浅間山が大噴火を起こす。特に東北では飢饉が広がる。意次の嫡男意知が若年寄を拝命し父子で政の中枢に立つ。意次は自らが打ち出した政策は動き出したばかりで後に続く者が必要だから、新太郎、龍介、十兵衛に力になってやってくれと頼む。松平定信をはじめ意次父子を妬む御三卿に気を付けるようにと注進されていた意次だが、意知が刃傷を受けた。事件から9日後意知は36歳で生涯を終える。加害者の佐野善左衛門は乱心として切腹を命じられた。意次はその背景に御三家がいると察する。蝦夷地の実態が明らかになるにつれ、松前藩主を召喚して取り調べよとの声を押さえて意次は調査隊を派遣しそれに松前藩の協力を求めるのがよい、蝦夷地の実態を把握してから松前藩の処遇を決めればよいという意次の意見に反対する者はなかった。まだ意次を中心とした体制は揺るいでいなかった。

家治から溜之間詰に松平定信を任命する件について相談された意次は、御三家と一橋家の推挙ならばやむを得ないと答える。家治はそれでよいのかと意次をみつめた。一橋家の豊千代を世子とし、松平定信が一橋家と手を結んだ以上、家治の立場を安泰にするには松平定信の願いを聞き入れることと判断した意次は改革途中のことは水野忠友に託して自分は表舞台から退く決心を固めていた。家治は死去し意次は老中を解任された。葬列に加わることなく翌年70歳で亡くなった。相良城も取り壊され、魚達の集まり場所になるといいと夢を語っていた意次を龍介とお北は懐かしんでいた。蝦夷地開発も打ち切りにされた。その松平定信も家斉から老中を解任される。水野忠友も意次から養子を迎えていたのに離縁したのは病床にあった意次に衝撃を与えたと龍介は未だに腹が収まらない。新太郎は十兵衛と一緒に松平定信の手の届かない所に去った。龍介もお北も、30年後、意次の四男意正が相良に田沼家当主として1万石の大名となり若年寄に出世する日が来るとは想像できなかった。

 

田沼意次。悪名ばかりが先に立っていた人物だが、平沼弓枝さんの筆にかかると、何という好人物なんだろうと感嘆する。そばにいた龍介、お北もいい。巻末の島内景二の解説によると、爽快さと悲劇性とが絶妙にブレンドされた不思議な作風、快男児と持ち上げるが、さもありなんと思う。