天璋院篤姫(上) 宮尾登美子

2007年9月7日第1刷発行

 

江戸城無血開城まで大奥を束ねた天璋院薩摩藩の分家から本家の養女となり、13代将軍家定の御台所。動乱の世を生きる。初名は於一(おかつ)。父・忠剛は於一が男でなくて残念だとよく言った。成人名は敬子(すみこ)。斉彬が藩主の座に就き、初めて領地に入る時の出迎えの総帥は忠剛だった。16歳の篤姫は城中へ参上した際、斉彬から声を掛けられ、日本外史が好きと答えた。まだ読んでいない七巻を贈ると約束された。忠剛は、篤姫が久光の二子・右近の側室に望まれることを恐れていたが、斉彬から篤姫を養女にしたいと求められ、涙ぐむ。更に斉彬からは篤姫を大奥に上げたいとの思案があり、忠剛は驚き慌てる。

斉彬が篤姫のために幾島を手配すると、篤姫を幼い頃から育ててきた菊本が生害する。身分の低い自分の存在を完全に消し去るために死をもって身を引いた菊本。篤姫は嗚咽をこらえ切れなかった。城に上がった篤姫を教育するのは眉間の真ん中に大きなこぶを持つ幾島。山陽の詩と普賢菩薩の念持仏を力として気を張って生きていく決意を固める篤姫。11代将軍御台所となった斉彬の大叔母にあやかり、敬子も篤姫(あつひめ)となる。12代将軍家慶の薨去後、斉彬は篤姫を江戸へ送り出す。篤姫は幾島の介添えで、斉彬の妻英姫の駕籠に乗り、江戸までの長旅に出立する。三田の藩邸に着くと、奥老女の小の島が出迎える。翌日心待ちにしていた英姫と対面したが、英姫はかつて痘瘡のために顔に瘡痕が残り、人前に出るのを嫌ったため、一言あっただけで親しい言葉かけもなく、篤姫は気落ちする。家督を継いだ家祥は将軍宣下を受け、13代将軍となり、名を家定と改めた。斉彬出府後、忠剛の訃報に接した。幾島はその事を篤姫にすぐには伝えなかった。篤姫は声を上げて泣いた。斉彬は様々な問題を処理するために信頼できる人物として西郷吉兵衛を庭方役に登用し、西郷には篤姫入輿の支度一切の準備を命じた。禁裏御所の炎上もあり、秋の入輿が延期された。

安政二年三月、花見に島津邸に訪れた水戸斉昭、山内豊信伊達宗城松平春嶽らと初めて挨拶した篤姫だったが、学問に造詣の深い篤姫に深く関心し、篤姫を御台所と認める。老中・阿部正弘の勧めで、近衛家の養女として徳川家に入ることになる。が、焼死者、圧死者合わせて20万人を出した安政の大地震で入輿は延期となるが、ようやく篤姫の入輿が決まった。四年目のことである。入城前日、斉彬は世継ぎ誕生の使命だけでなく、慶喜を将軍継嗣にという密命を篤姫に伝え、西郷と小の島、幾島を通じて連絡を取るという。大奥総取締役の滝山と挨拶を交わし、江戸城へ向かう行列が出発する。御台所付の女中の総帥には唐橋がついていた。以降、家定が御台所にいかにして足繫く向かうか、滝山、生島らは談合を繰り返した。幾島は部屋子の重野には側室おしがの方を監視させる。後継は紀州の慶福か一橋の慶喜か。滝山は慶福を強く褒めた。そんな折、老中・阿部正弘が急逝する。ハリスと会うのが不安な家定に慶喜を同席させることを勧めた篤姫慶喜に会うが、二腹持つ慶喜については快く思えなかった。毒見役にわざわざ危ないことをさせる必要がないことを観菊の席で説く慶福の方が遥かに振る舞いが優れており、父が何故に慶喜を勧めるのか真意を測りかねていた。滝山は篤姫に老中の堀田正睦の更迭、後任に井伊直弼を進言する。滝山からは水戸斉昭が大奥に干渉するのは困る、徳川宗家を第一に考えて欲しいという。斉彬の言うままに動くことが正しいことかについて迷う。篤姫は連判に名を連ねることを拒みつつ、滝山が自らの判断で行動することは放置した。家定は篤姫に後嗣には紀州慶福に決めたと告げる。そして篤姫には政子のごとく慶福を後見し政局を乗り切って欲しいと頼まれる(了)。

 

最高権力を巡る権謀術数の凄まじさを間近で見る思いがした。目に見えるものだけでなく、その奥にある人の思惑というものを、権力に近づけば近づくほど、鋭敏に感じ取る能力がなければ、食い殺されるというのが権力の本質である。実に恐ろしい世界だ。