最悪の将軍《下》 朝井まかて

2020年11月20日発行

 

綱吉の信任厚い大老の堀田が若年寄稲葉正休の凶刃に倒れた。理由は堀田に淀川の治水の任を解かれた稲葉が堀田を恨んでのことだと推察されたが、稲葉がその場で滅多裂きにされたため、理由は明らかにならなかった。なぜ裁きを受けさせなかったのかと綱吉は無念がる。武ではなく文を以て政治をなすと決めてそれを告知した直後に堀田が城内で刃に倒れては廻りに示しがつかない。綱吉は命への慈しみを人々の心に養うことで秩序に満ちた世を開くと違い、生類を憐れむべしとの触れを出した。かつての将軍が一度も踏み込んだことのない先例なき挑みだった。オランダ人のケッペル医師は綱吉が民の命を重んじる王であり欧羅巴には一人もない、商館に勤める医師を特別な場に招き入れることで信を置かれたことが心強い、泰平なこの国の人々は活気に溢れ好奇心がすこぶる強い、この国の民は豊かな土地に相応しい偉大で卓越した君主を得たと述べた。浅野内匠頭が吉良殿を殿中で斬り付ける事件が発生した。浅野に切腹を命じ吉良にお咎めなしとした。四谷伊賀町の出火、地震、更に大火が起き、浅間山の噴火、夏に長雨に洪水と次々に綱吉を苛む出来事が続き、綱吉の血を引くただ一人の娘鶴も28歳で没した。兄綱豊、改名して家宣を将軍世子として西之丸に入らせた。840年余ぶりに富士山が噴火。江戸の町は白灰が色を変えて暗黒色の灰と砂塵で埋まった。綱吉の薨去後、10日も経たぬうちに生類に関わる数多の令の撤回、停止が通達された。家宣の将軍宣下の前に施策を改め、代替わりに際しての混乱を避けるため自ら施策を緩和したという形が取られた。病床に臥せる綱吉の「扶桑の民はいかなる災厄に遭うても、必ず立ち上がる」「強気、愛しき民ぞ」との言葉や、信子に述べた最期に一言「我に、邪無し」は綱吉像を一変させた。

 

巻末の解説で中嶋隆は、犬公方として悪名高い綱吉は人命より犬を貴んだ将軍として評判が悪い、最近では文治の観点から再評価されているが、一般的には「最悪」のイメージが濃厚である、しかし、生類憐れみの令に「慈愛、慈悲の心」を説く綱吉の祈りのような統治理念を著者は見出し、「文治」の根底にある理念が「生類憐み」と考えれば、この令への評価が逆転する、「最悪の将軍」というタイトルに込めた思い入れが理解できるという。その通りだと思う。冨士山噴火は1707年。信子が最後まで信念をもって綱吉に寄り添った姿は感動的である。