悪党芭蕉《下》 嵐山光三郎

2012年6月10日発行

 

目次

11不良俳人・其角

12『俳諧問答』に難点あり

13生類憐みの句

14死後に見よ

15死出の旅

16荒れる句会

17最後の歌仙

18夢は枯野をかけ廻る

19蕉門分裂へ

おわりに

解説 村松友視

 

11 師の大巓和尚が才気あふれる若者の傲慢をいましめるために「其角」とつけた。

  「酒ノ瀑布(タキ)冷麦の九天ヨリ落ルナラン」は、李白「廬山ノ瀑布」の「銀河ノ九天ヨリ落ルカト」からとった。李白の詩を応用して、「冷麦が天から落ちる」としたところに俳諧の座興がある。原典を知らぬ者にはまるでわからない。そこが其角たるところであり、原典を知る者にはやたらと面白い

 

13 芭蕉にとっての西鶴は仮想敵であって、「打倒西鶴」が蕉門の合言葉であったろう。西鶴芭蕉近松に共通するのは、綱吉の圧政下で、「人間はどう生きるか」を模索していく姿であった。生類憐みの令の翌年に「古池や‥」の句が出たように芭蕉は時代の動向に敏感である。

 

14 『奥のほそ道』では、格調高く「重み」を持たせておいて、「死後に見よ」とした。そういうすみわけを用意して、俳諧では「軽み」をうちだした。蕉門の重鎮たちが、つぎつぎと芭蕉を批判して離反するのは、「軽み」をうけいれられないからである。

 

15 芭蕉のいう「軽み」とは、心を高く悟りながら俗に帰ることである。軽く見せつつ、深慮老熟の境地から発する息である。深みのある句を平易に詠ずる。それが旧派の弟子には理解し得ない。

 

18 芭蕉は、「これは辞世の句ではない。ただ病中の吟でらう。さらにこのような句をつくるのは妄執である」とつけ加えた。そういう事情はあるが、「旅に病で夢は枯野をかけ廻る」は、芭蕉の辞世の句として伝えられるに至った。

 

19 芭蕉の弟子は百人、三百人、二千人ともいわれ、どこまでを直弟子とするかは意見が分かれるけれども、其角がそのトップであることは間違いない。・・かくして、蕉門は分裂に分裂を重ねることになる。その引きがねをひいたのは、まぎれもなく其角である。其角は芭蕉の「軽み」など屁とも思ってはいなかった。芭蕉没後、蕉門は四分五裂をくりかえすことになる。

 

おわりに 蕉門の強さは、門人たちの闘争にあり、各派がはりあって論争したことによる。芭蕉没後、弟子たちが四分五裂したからこそ、最終的に芭蕉が残ったのである。

 

芭蕉の知らない一面と其角を始めとする弟子たちのことが学べてよかった。