序の舞《二》 宮尾登美子

1987年4月10日

 

青年絵画共進会の第1回展覧会で津也は「美人観月」を出品し三等賞受賞。18歳で初めて歴史ものとして初めて手を染めた「清少納言」は京都博第21回で褒状を獲得。松渓から「くれ竹」という数寄屋造りの屋敷で男女交合の露な図を見せられ優しくされて関係を持つ。“人間の素っ裸の姿、本能のあるがままの姿ちゅうもんは、そこに正しく学ぶべき真理が在る”“あんたも一度は枕絵を描いとおみ。ほしたら人間の体の線がよう判るし、何より人間に対する理解が深まる”との松渓の言葉は津也の胸の底に落ちていった。大文字の送り火を徳次と2人で見た帰りに好条件でプロポーズされる。松渓から再び「くれ竹」に誘われると嬉しさに溺れ、逢引は続いていった。津也は妊娠し動揺するが、勢以は人知れず出産させて里子に出す手配をする。赤ん坊盛子を写生して津也は生後7日目に引き渡す。家に帰り津也は勢以に絵を今後を続けたい、修行は松渓のライバルである福野魁嶺の弟子として続けたいと訴え、無事入門を許された。四季美人図がシカゴ万国博で二等賞を受賞し話題となるが、塾の名札には驕るなかれと書かれた札が貼られていた。盛子が流行り病で4か月で亡くなった報せが届く。隣の出火で家が焼け落ち勢以の実家でしばらく暮らす。日本美術協会展へ出品した「美人弾吹図」が三等入賞したが、魁嶺の下では酷評続きで、気落ちした津也はしばらく死の誘惑に囚われ続けた。魁嶺が病死し四天王の一人西内太鳳の門をくぐった。西内は思うままに描け、自由に描けと言い、津也は心機一転腕を振い出す。徳次の結婚が決まり3年ぶりに会うと“大衆の芸術たり得ない、一部金持ちの玩有物”と言われるも徳次が使っていた絵の道具を貰った。「清少納言褰簾」が褒状獲得、「義貞聴琴」が京都博三等を射止めた。「義貞聴琴」で得た画料で西内の長浜旅行先に駆けつけ関係を持ってしまう。すると太鳳は今後は自らが後楯となり自らの画室への入室と模写を許す。津也が帰宅すると再び新しく勢以が出した店が火事に遭い半焼するが、被害は最小限で済んだ。「朗吟重衡」三等銅牌、「古代上﨟」三等受賞を果たし、自分の青春を全部打ち込んで描き上げた「人生の春」は三等銅賞で人々の口にのぼる。「花さかり」は銀牌を獲得し全国的にも大きな話題を呼んだ。太鳳への想いを込めて描いた「軽女悲離図」は二等入賞。太鳳から「人生の春」が出世作になるから構図一工夫してみてはと励まされ第5回日本美術院展へ出品すると銀牌第一等を獲得する。松渓が銀牌第二等だったので旧師に勝った。その松渓と再会した。津也の作品から身籠って姿を消したことを察知した松渓は津也に謝り、かつ恋に苦しんだ心境を明かし、再び逢瀬を重ねる関係となった。洋行から帰国した太鳳は更に飛翔し憧憬をさらに深めた。松渓との約束の日だったが、太鳳との約束を優先した津也は太鳳から女流第一人者を目指したら世界にも名が響くかもしれないと励まされる。正月を迎えると日かげ者の愛人と自らを自嘲した。