昭和56年1月13日1版1刷 昭和58年12月22日1版7刷
①名付け親は祖父―幕府使節として欧米へ
②府立四中からできたばかりの弘前高校へ
③東大進学―馬術部の主将に
④興銀入行―多士済々の同期生
⑤結婚―初の見合いで“金的”
⑥AかBかーGHQの選択かわす
⑦大阪支店長時代―再学復旧資金作る
⑧日産化学へ―有機化学へ転身、再建図る
⑨経営危機の山一証券へ―社長就任
⑩最も長い夜―空前の日銀特融発動
⑪新生山一―4年で特融完済
⑫バトンタッチー75周年迎え会長就任
・明治38年2月生まれ。東大法学部に入学後、1学期終了前に政治学科にクラ替えした。卒業後、日本興業銀行に入行。貸付課貸付係、同課割引係、鑑定課を経験した後、開設準備委員として広島に赴任。1年後に証券課信託係長として本店に帰る。興銀広島支店勤務、終戦後、証券部長になる。債権発行銀行として日本興業銀行が生き残れるかGHQとの交渉は難航したが何とか生き延びた。昭和24年大阪支店長として赴任し、2年9か月後に本店に帰る。長期信用銀行に転化し常務に任ぜられた。労使対立の激しかった日産化学工業に行った後、山一行きを求められ応じざるを得なくなった。社長に就任し、282億もの日銀の特別融資(無担保、無期限)を受け、山一の体質改善・再建に向け、かつての山一は旧会社となり、営業の一切を譲り受けて新会社を設立し、新会社は山一証券に、旧会社を株式会社山一とした。4年余の期間に日銀特融を完済でき、昭和44年に新旧両社が合併し特融完済宣言を出し、現在の山一証券が誕生した。48年に7年ぶりに市場第二部に上場。同年日本証券業協会会長に互選される。無芸大飲の専門家を自称する我が家の晩酌は日本酒三合が定量である。(昭和54年、山一証券取締役相談役。55年より国際電信電話会長)