私の履歴書 福田千里(大和証券社長) 日本経済新聞社 経済人5

昭和55年8月4日1版1刷 昭和58年10月24日1版8刷

 

①縁起のいい名“千里”の由来

②三高・京大へ、水谷君らと弁論部入り

③家計を案じ、月給取りとなる

④女官と兵隊の悲恋物語

⑤平賀社長の秘書時代

⑥妻と私、わが心とわに変わらじ

⑦パニック、川崎造船倒産にまいる

⑧突然門司の支店長を命ぜられる

⑨証券投資組合部の初代部長となる

⑩幼稚だった台湾証券界

⑪企業合同で「大和証券」発足

 

明治29年10月20日東京赤坂生まれ。府中四中から京都一中に転校し、三高、京大と京都生活が続く中、民社党の水谷長三郎君と現電源開発総裁の藤井崇治君が同級で仲よくなった。理論的には川上肇先生に、実践面では賀川豊彦先生のキリスト教社会主義と労働運動の鈴木文治氏に傾倒しながら多感な大学生活を送った。卒業後、藤本ビルブローカー銀行員になった。軍隊生活の後、肋膜で静養した後、平賀敏さんの秘書をやった。秘書から銀行部勤務に転じたが、藤本ビルブローカー銀行から藤本ビルブローカー証券に社名が変わり、第二次世界大戦に突入すると外語がいけないとなり、藤本証券に改めた。投資組合を発足させ初代部長として面目をほどこした。日本投資信託株式会社が作られたが、敗戦で一瞬にして安定証券が価値ないものになった。台北で初代支店長なって台北支店を開設。山一証券野村證券の支店がそれからすぐにできたので、三社の台湾進出はほぼ同時だった。本店勤務になり債券部長に就任し、国債中心に扱った。藤本証券は日本信託銀行と合併し、社名を大和証券と改めた。名付け親は当時日銀総裁だった結城豊太郎さんだった。昭和18年12月大和証券が発足し、取締役債券部長として新会社の人間になった。戦後、銀行業と証券業と業務分野をはっきりさせ、株式や社債の引き受けはすべて証券会社がやることになった。昭和32年に社長となった。平賀さんのいった細心大胆の教えは社長就任のあいさつで社訓にした。(昭和38年大和証券会長に就任。43年より同社相談役)