平成22年1月1日発行
裏表紙「三河制圧に意欲を燃やす信玄は、ついに三方原にて家康と激突する。圧倒的軍勢を誇る武田軍を前に、勝敗は呆気なく決し、家康は敗走。窮地に追い込まれた徳川軍の最後の砦は、野田城に篭もる菅沼定盈のみ。勢いづく敵は三万、守るは四百。絶体絶命の中、定盈は一ヶ月に亘る大攻防を繰り広げる。並居る武将を唸らせた男はいかに生きたのか。菅沼三代を描いた歴史巨編、堂々の完結。」
信長は諸国の大名に上洛を命じた。応じなかった朝倉義景に軍を向けた。浅井長政から背後を襲われた。野田城に田峯城から城所道寿が勧降に来たが、新八郎は、六右衛門道寿に対し没落するのは武田だと言い放ち拒絶した。大野田城を出て決死の覚悟で新八郎は秋山信友を退治した。新八郎は妻を家康に人質として差し出した。武田軍は三河に入り足助城を攻めた。城主の鈴木重信と子の信重は逃げた。信玄の念頭にあるのは大野田城の攻略である。浜松の家康の急襲に備えつつ、信玄は大軍で大野田城を攻めた。新八郎は大野田城を諦め、逃げた。吉田城にいた家康は二連木の方へ進み、信玄は勝頼を将とする軍を徳川勢にぶつけた。新八郎は吉田城に入り、野田城が毀されていないことを知った。家康は新八郎に越後へゆき、上杉謙信を動かして信玄を揺さぶるよう指示した。新八郎は野田城の修繕を急がせた。三方原台地の南端に城を構えた家康を、信玄は挑発した。家康は大敗した。信玄は野田城を包囲した。新八郎は死を覚悟した。家康が浜松から救援に来た。武田は三万。家康は三千。家康は吉田城に退いた。武田軍は火の出るような攻撃を仕掛けた。新八郎は芳林に笛を吹かせた。二十日経ってもひとつの曲輪も落とせない信玄は信長も家康も援けに来ないとわかっていながら新八郎がはつらつとしているのに嫌な男を相手にしていると感じた。信玄は力攻めから水断ちに作戦を切り替えた。城内の水が尽き決死隊を出すことを決めた矢先、大川余一は水をめぐんでもらおうと言い出した。信玄の器量を試す作戦だった。信玄は求められるままに毎日六千杯の水を差し入れた。新八郎は開城を決断した。信玄は新八郎を武人の鏡とし殺さず臣下としたかった。新八郎は長篠城で軟禁され、菅沼定忠、奥平貞能、長篠城城主の菅沼正貞が信玄に仕えることを勧めたが、新八郎は変心しないと返事した。人質交換で新八郎は松平忠正と引き換えに戻された。新八郎は野田城を奪還した。その頃信玄が53歳の生涯を閉じた。菅沼新八郎定盈の驍名が天下に知られるようになったのは、信長が新八郎を召して「住吉の楠(正成)にも劣らざる英雄」と称えたからだった。勝頼と対峙した奥平昌貞の家臣鳥居強右衛門勝商は雑兵の身分だったが、援軍の狼煙を上げるために驚異の脚力を示した。この忠烈は家風の質を感じさせた武士道の模範となったが、勝頼は彼を殺した。それは武士の忠節を卑しめ名門の香りを失せしめるものだった。結局、家康と信長の連合軍は武田勝頼に完勝した。家康が秀吉から与えられた関八州のうち武蔵の阿保が新八郎の封地となり、新八郎は阿保に流れ着いた。関ヶ原の決戦の前に家康は阿保から新八郎を呼び、江戸城の留守居番に定盈を加えた。その後、伊勢の長島へ移封され、63歳で亡くなった。菩提寺の宗堅寺が東三河(新城)に遷るのは定盈の孫の代だった。