風は山河なり 第5巻 宮城谷昌光

平成22年1月1日発行

 

裏表紙「二万の軍勢を率いて尾張に進攻した今川義元であったが、桶狭間で信長の寡兵に敗れ命を落とす。父の死、弟の謀叛を乗り越え、元康に属く決心をした菅沼定盈は、その手腕で信頼を勝ち得るも、人質にとられた妻を殺され、守るべき野田城を奪われるという悲運に見舞われる。甲斐では、今川と松平の熾烈な争いを横目に、信玄が不穏な動きを見せ始めていた。時代が激動の様相を呈する第五巻。」

 

菅沼新八郎定盈の祖父定則が27歳の時、北条早雲が亡くなった。彼の遺訓「早雲寺殿廿一箇条」の中の一条に「歌道なき人は、無手にいやしき事也。学ぶべし。常の出言につつしみ有べし。一言にても、人の胸中知らるる物成。」とある。伝統的な形式を破壊した早雲であるが、歌道を否定するのではなく、逆を言った。城主として落ち着いた新八郎は心にゆとりを持ち歌道を学んだ。苅屋城の城主が伊賀の者に暗殺されたが、水野の者は城を守り切った。それでも新八郎の攻めは上手いと誉められた。義元は三河守となったが、尾張の城を取らぬうちは岡崎を返還しなかった。義元は駿府を出て尾張に向かった。懸川を越え、沓懸城に入り、大髙城近くまで陣を進めた。信長は清州城で迎えた。元康は大髙城番となった。圧倒的な兵力を持つ義元が信長に討たれた。新八郎は内室と妹を吉田城に人質に出すよう求められた。新八郎は今川に離叛し、岡崎の元康と結ぶことを考え始めた。2年後、元康は元を棄て家康と称した。今川氏真は内室らを処刑した。新八郎は妹だけ救出に成功した。今川は野田城を攻めた。新八郎は検討したが野田城を明け渡し、石田新城に移った。石田新城は落ちなかった。新八郎は野田城の奪還を計画した。新八郎は元康の兵を借りて月谷城の奪還に動いた。野田城に近くに大野田城を築城した。家康の吉田城攻めはかなりの日数を要した。家康は新八郎を語るに足るとみた。新八郎は家康から遠江の討入りを計略すべしと命じられた。「家康は永禄九年十二月二十九日に、姓を『徳川』に改め、三河守に任ぜられた。新田氏の庶流の世良田を姓としたのは祖父の清康であるが、家康はその姓を採らず、世良田の本家にあたる、得川、を選定した。ところが得川氏嫡流は消滅しておらず、やむなく一字を変えて徳川とした。いうまでもなく、得川氏も新田氏から岐出した血胤のひとつであるから、家康の希望としては源氏の旗頭である新田の氏姓を自家のものとしたかったであろう。それがうまくいっていれば、新田家康が誕生し、新田幕府、新田時代が日本史の呼称として現出したであろう。」家康は引間城に入った。初めての遠州入りである。駿府を攻めた武田から逃れるために今川氏真は懸川城に逃げ込んだ。北条は氏真を援け、武田は遠州を取ろうとしていた。懸川城はなかなか落ちなかった。奥平貞能の助言で今川と和睦を考えた。和睦は成った。徳川、今川、北条の連結は、武田を棄てたことを意味した。