新三河物語 上 宮城谷昌光

2008年8月30日発行

 

大久保家の本家は、大久保五郎衛門忠俊<常源>で、その弟が大久保左衛門次郎忠次、三弟が大久保平右衛門忠員(ただかず)である。主人公は、忠員の長男七郎右衛門忠世と次男治右衛門忠佐である。弟平助忠教は、大久保彦左衛門の名で三河物語を著したことで有名。

 

さて、本書は、桶狭間の戦いで敗れた今川義元が死んだのか、それとも重傷だが未だ生きているのか不明な状況の中で、義元の臣下だった家康は、大髙城をどうすべきかと考えるところから始まる。浅井道忠から家康は“水野下野守の勧告”として“明日には信長の兵が押し寄せてくるから今夜のうちに支度して早々に引き退くがよい”といわれ、家康は家臣たちには“知立へ行く”といい、道忠には“嚮導していただこう”といい、拒否されると“無事に岡崎に着いたら知行をさずけよう”といった。これは後からみれば、天下総覧への初手であった。19歳の家康は13年間の今川の束縛からから離れて岡崎に戻った。義元が戦死したと聞いた家康は、「人は徳にしか頭を下げない」と感じた。徳を失い独りになった義元は斃死せざるを得ない。合戦がなくても早晩義元の死は必死であった。心せねばならぬと家康は思った。岡崎の家臣が今川に酷使搾取されても耐え続けて家康康の帰りを待ち続けてくれたのは父祖の徳のお陰であった(三河の晨風)。

三河物語」は、大久保彦左衛門忠教(平助)が書いたもの。平助の父忠員(ただかず)は文武兼備を武人の至上の像としており平助を妙国寺に通わせ文字を始め儒教を学ばせた。家康の真の敵は真宗本願寺の勢力である。岡崎に戻った家康は、大久保一門の総帥である忠俊(常源)と忠勝に宇和田の屋敷を城に造り替えよと命じた(上和田砦)。

忠世の友人の本多弥八郎正信は本多一門は門徒で勝鬘(しょうまん)寺に恩がある、主家にないと言い、松平家と袂を分かった。阿部家は大久保家と近く、加藤家は門徒だった。大久保一門は十日で砦を竣工した。本多作左衛門らだけは、一揆側でなく主家につき、上宮寺に火をつけることになり、それを援けるよう家康から常源に密命が下った(一向一揆)。

日本で最短の手紙といわれる本多作左衛門重次が武田家との決戦場で書いた妻宛の「一筆啓上、火の用心、お仙人泣かすな、馬肥やせ」という手紙により重次の名は不朽となったが、その手紙より12年前に門徒でありながら重次は家康の敵を討つため上宮寺に近づき火を放ったが、焼き討ちは失敗した。一揆の本営は本證寺である。本證寺の夜討ちは門徒衆の怒りに火をつけた。近々報復の平が大挙するのは間違いなかった(浄珠院)。

本多正信が軍師となり、岡崎城を攻めるために上野城を出発した。常源、忠左、忠世が迎え撃つ。正信は忠世を除剪することが大久保党を潰滅させる近道と判断し、壮絶な戦いが5日間繰り広げられた。負けそうになった時、家康は唯一騎で駆けつけ猛然と押し返しが始まった。門徒兵は退いたが、上和田砦の中も死傷者で盈ちた。この時、家康は、「なんじどもの恩、七代、忘れはせぬ」と言った。忠勝が重傷を負い、常源は忠世を大久保党の将に立てた(忠世と正信)。

五十の兵が上和田砦に籠り、周りを千の門徒兵が囲っていた。家康の兵が駆けつけ主戦場が上和田砦から東に移り、門徒兵が総崩れとなった。水野信元が信長の指示で家康のいる妙源寺を訪ねてきた。門徒衆は常源に降を告げた。常源の前に蜂屋半之丞、石川源左衛門、石川半三郎、本多甚七郎の4人が並んで座った。内乱を終息させたい者たちの密談が三河を疲弊させなかった。常源の徳の巨きさは名臣鏤骨に値する(川辺の風)。

常源が門徒衆を連れて家康に謁見した。降伏する側の一揆の首謀者の一命を助けることという条件は家康が飲めるものではなかったが、常源が涙を流して一揆を収斂させることを優先させるよう家康に訴えた。難所の一つである一向一揆との戦いを乗り越えた。新井白石は後世に『藩翰譜』で大久保家の大功の一つにこの一揆を鎮めたことを挙げている。この家康の対応に納得できない態度を示した渡辺八郎三郎を家康は許さなかった。論功行賞の中に大久保党の主導者が入らなかったため不満顔の者も中にはいたが、忠世は殿が「なんじどもの恩を七代忘れぬ」と仰せられたことで十分だと語ると皆納得した。家康は忠世に東方の敵への攻勢に転じることを命じた。忠佐は忠世を佐けて東進した(東方の敵)。