最後の将軍《上》 司馬遼太郎

2002年10月20日発行

 

色んな作家が慶喜を色々に描く。本書は司馬遼太郎の描く慶喜である。慶喜といえば、大政奉還、新政府軍に恭順の意を示し、無血開城により江戸が戦火に見えることを回避した、最後の将軍として知られている。平和的で軟弱な印象を持つ人もいる。本書は冒頭で慶喜の生い立ちを詳しく説明する。水戸藩徳川斉昭の子として、幕府から嫌われた煽りを受けて幕閣や大奥から嫌悪されていたこと、水戸藩が幕府に嫌われていた理由については、徳川光圀が藩主だった時代から多大の藩費をつかって大日本史を編纂し続けて京都朝廷を尊び武家政権を卑しむような尊王賤覇の歴史観を持っていたからであり、「もし江戸の徳川家と京の朝廷のあいだに弓矢のことがあればいさぎよく弓矢を捨て、京を奉ぜよ」との秘伝が遺されていたこと、慶喜自身も水戸藩で育ち、母親が宮家の出身であったことから、朝廷との結びつきが当然強かったことなどである。司馬は、家定を精神薄弱者、母お美津を尼将軍として水戸斉昭を大鬼と家定に吹き込んだ、慶喜は百才を持つが、野望を感じられない、という男として欠落した資質があった、と描き、そんな慶喜を押し上げようと懸命になっていたのが松平慶永(春嶽)で、慶喜に日本の危機を語り、危機を克服する思想は尊王攘夷であり、その克服の方法は軍備の充実、洋式兵器の開発、人心の一致であるが、将軍がああではどうにもならぬ、諸藩をひきいて立って外夷にあたるだけの英雄底は慶喜しかいないと担いた。慶喜は担がれたところで何もできないと言っていた。そこへ彦根藩井伊直弼大老に唐突になり徳川家の血の薄い水戸藩一橋慶喜でなく、血が濃い紀州慶福の方が良いと考え、自ら日米条約を勅許をえずに調印しておきながらその責任を調印実務にあたった2人の老中に押し付けた。この時慶喜は積極的に政治行動に出た。慶喜は登城して直弼と相まみえたが、直弼は水戸斉昭への憎悪から安政の大獄へと突っ走り処刑・処罰を行った。直弼が暗殺されると、将軍後見職となった慶喜は開国論者であったが、攘夷の勅命を受けた春嶽は開国の抱負を秘めた技術的攘夷論に立ち、慶喜は幕議に服したが、自らの開国論を他に漏らさぬよう釘を刺した。平岡円四郎が後見職に就いたころ慶喜の側近に返り咲き慶喜の知恵袋としてその名が聞こえてきた。京都に上洛した慶喜だったが、将軍家茂が二条城を出て天子から攘夷の節刀を与えられれば即刻攘夷断行せねばならず、違背すれば朝廷の敵になるため、当日にわか病で慶喜が代わりに出発したが山上に辿り着く前に発病したとして遁走した。攘夷実行の期限を催促された慶喜20日後と伝え、将軍を京に残して自らは江戸に戻った。期限の前日になって登城し攘夷の発令だけして実効方法は明示せず、かつ後見職を辞職した。辞任の報に接した公卿は混乱に陥り留任を泣訴し、慶喜の芝居の目的は達した。夏には8月の政変で京の宮廷に無謀の攘夷派はいなくなり、2度目の上洛を果たし、春嶽、伊予伊達宗域、島津久光と会議を重ねたが、ほどなく仲間割れを起こし、慶喜以外は薩摩と共に開国論となり、過激攘夷論慶喜は孤立し、平岡は斬殺されてしまった。