間宮林蔵《下》 吉村昭

2012年12月10日発行

 

忠敬は69歳になっており、蝦夷の再測量は不可能だったため、林蔵は自分が蝦夷の全測量をなしとげ、それを忠敬に提供することを思いつき、測量を実施後、精確な原図を忠敬に送った。林蔵の父が亡くなり、母に再会した後、九州から江戸に戻っていた忠敬を訪ねる。林蔵が送った原図が忠敬の下に届くが、74歳だった忠敬は亡くなる。忠敬の死後、門人たちにより完成した正確な日本地図が誕生し、大日本沿海與地全図と與地実測録が幕府に提出された。林蔵はその頃、南部藩による津軽藩主暗殺計画を企んだとされる下斗米秀之進の行方を探索する密命を与えられ、気配をうかがっていた中で秀之進が召し捕らえられた。蝦夷地を幕府直轄としていた方針を転換して松前藩に戻した。大津浜にイギリス船が出現した後、幕府は房州から奥州までの海岸線を密かに調査することにして林蔵に調査指示が出た。林蔵は身分を隠して調査してみると、異国船を目撃した猟師や船乗りが多かった。1年余にわたる調査結果を江戸に戻って報告すると、母の死を伝える書簡が届く。47歳になった林蔵は、オランダ商館長一行が長崎から江戸に入ったことを耳にした。この一行にはドイツ人のシーボルトがオランダ人を装って入国したために強い関心が集まっていた。ただシーボルトの医学知識は最新のもので名医の声が高く、シーボルトから医学の教授を受けて日本の医学水準を高めさせる方針を取った。やがてシーボルトは長崎に戻る。林蔵は伊津代官柑本平五郎に随行して伊豆七島を巡見し国防力を高めた。49歳になった林蔵はシーボルトから包が届き勘定奉行に届け出た。シーボルトは大勢の日本人と接触し、海外に持ち出すことが厳禁されていた日本とその周辺地図類などを本国に持ち帰ろうとしていたことが発覚し、シーボルトについて全面調査が行われる。シーボルトに忠敬作成の日本地図の写しを提供した天文方兼書物奉行の高橋作左衛門が逮捕され大きな話題となった。高橋は「大日本沿海輿地全図」と「輿地実測録」を完成させた本人だからだ。シーボルトの居宅が強制捜査され、本人への厳しい取り調べの結果、植物園の地面の中から埋められた日本地図を没収し、シーボルトは永久国外追放が申し渡された。しかし、長崎では、林蔵が幕府に密告したために事件が発覚したなどという噂が流れているのを耳にした林蔵は驚く。江戸に戻った林蔵はその噂が江戸にまで流れて定説となっていたために人々の林蔵を見る目が変わってしまったことを実感する。その後も白眼視は強まるが林蔵は一向に意に介さなかった。林蔵は水戸藩徳川斉昭から請われて海防意識が高い水戸藩として正確な知識を求められ惜しみなく自らの経験したことを話した。その後も老中大久保忠真から津軽松前藩調査を命じられ俳諧師を装い調査し、幕府への報告はいずれも保身のための虚偽であることを報告した。薩摩藩でも海岸線を歩きまわり密貿易が行われていることを察知した林蔵は日向から四国を経由して大阪に舟で移動し江戸に戻った。浜田藩での抜け荷の気配、薩摩藩松前藩での密輸入の実態を報告。浜田藩での抜け荷の実態が明らかとなる。会津屋八右衛門は家運挽回のため韓国領鬱陵島(当時は竹島と呼んでいたが、現在の竹島のことではない)に眼をつけ、ここを拠点に密貿易をしていた。かつて幕府は島の渡航禁止令を出していたが八右衛門は密航をしていた。浜田藩としてはこの島が朝鮮領の確証もなかったため密航を黙認していた。幕府はこの事件を重大視し再び竹島事件のような違法を犯さぬようにという触書を全国の諸藩に掲げさせた。老中大久保忠真の死は林蔵にとり痛手となったが、忠敬で働いていたおりきが林蔵の下で身の回りの世話をしてくれるようになった。おりきは押しかけ女房となりたい気持ちで65歳で林蔵が亡くなるまでそばで世話をした。シーボルトは、帰国後、林蔵が、樺太を半島ではなく島であり、東韃靼との間に海峡があることを発見した世界最初の人物であることを出版物に記し、林蔵の地図も挿入して間宮海峡と名付けた。間宮海峡という名称が不動のものになったのは1881年(明治14年)に刊行されたフランス地理学者エリゼ・ルクリュ「万国地誌」第6巻「アジア・ロシア」によるもので、これにより世界地図に日本人としてただ一人林蔵の名が刻まれた。

 

面白かったです。タイトルがずばり「間宮林蔵」であるのも頷けます。それ以外のタイトルが思いつきません。