暁の旅人《上》 吉村昭

2018年11月20日発行

 

良順の義父松本良甫(りょうぼ)は、実父の蘭方医佐藤泰然と若い頃から既知の仲にあり、奥医師(将軍の専属医師)をしていた。良甫が良順を養子にするのに問題が一つあった。当時幕府の医官漢方医たちは結束してオランダ医学排斥の動きに出てオランダ医術禁令の布告が出されていたからだ。泰然はオランダ医学を学び、江戸で和田塾を開き、佐倉で医学塾順天堂をもうけた。良順はオランダ海軍伝習隊の医官ポンぺから基礎医学臨床医学を学び、受講には江戸より同行させた司馬凌海を同席させ、更に34年前に来日したシーボルトからオランダ医学を学んだ者14名を集めた。しかしオランダ医学を学ぶにはオランダ語をまず学ぶ必要があると知り、午前中はオランダ会話を、午後からポンぺの授業が行われた。ポンぺは医学以外の授業も行い、目的が分からぬ年配者達は脱落し、代わりに若い医師が受講した。家定の病没後、漢方治療に効果がなくオランダ医術禁令が解除された。医術習得に解剖は必須と説くポンぺだったが、攘夷の空気が蔓延する中で外国人が腑分けすることはなかなか認められなかったが、開明の奉行だったため、ようやく実現。病院設立の必要性を痛感した良順はポンぺの協力を得て療養所と医学所を開設した。魯西亜マタロス休息所の開設にも良順は一役買った。4年が経過していた良順は妻子を長崎に迎えた。ポンぺは母が亡くなったこともあり帰国を決め、良順も江戸に戻ることに。良順は医学所頭取となった後、新撰組の近藤から求められて海外情勢を聞かせる。将軍家茂に随行して上洛したが、家茂は大阪城で死去。慶喜が将軍を引継ぎ、いざ長州出陣の矢先、小倉城が落ちたため戦局は絶望的に。長州征伐は中止となる。江戸開城後、良順は一個の人間として生きて行くことを決意し、北に向かう。