暁の旅人《下》 吉村昭

2018年11月20日発行

 

良順は門人とともに会津の地に着く。慶喜が水戸に隠居謹慎する中、幕府に忠誠をちかい徹底抗戦を表明していた会津版のために力を尽くしたいと思い、同じ考えをもった門人たちとともに会津に入った。松平容保(かたもり)から呼ばれて直接声を掛けられ感謝される。新政府軍との戦闘で負傷した者たちの治療のために日新館を仮病院とするが、町の医者の最初の手当が誤っているために患者は次々と死んでいく。思い余って容保に会い、村の医者を集めて応急処置の講義を行う。次は栄養不足を改善するために牛肉を与えたいと容保に要望し、牛が届く。会津は古くからの仕来りに固執する傾向があったため野菜に混ぜ味噌に入れ丼物にして口の中に入れさせた。彰義隊とともに上野寛永寺門主として立て籠もった輪王寺宮親王若松城に入ると軍事総督に就任。新政府軍が会津若松までわずか五里に迫ると、容保より使者を通じて、医の道に仕える使命を負った御身らの避難を促される。、会津を立ち去る様に容保から言われ、庄内藩士の本間友之助の求めに応じて庄内に向かう。米沢で医学を学びたいと請われ門人を残し、良順は鶴岡に着くと足にロイマチスの炎症を発し、温泉治療に当たる。老中で備中松山藩主の板倉勝静と幕府海軍副総裁の榎本武揚から仙台に来るよう求められた良順は理由は不明だったが仙台に赴く。榎本と会うと、蝦夷の地に一緒に連れていこうという狙いが分かった。天下の大勢が既に決している中で蝦夷行きを躊躇っていた良順に土方歳三は江戸に帰るべきだといい、良順は函館行きには応じなかった。商人スネルの船で横浜に戻り牢に入るが軟禁程度で済み、やがて放免されて家族と再会し、息子銈太朗は長崎で医術を学んだ後オランダ留学し現在は早稲田に住んでいることを聞く。オランダ人の友人2人(1人はシーボルト)から1000円ずつ献金を受け、それを元手に、陸奥陽之介の援助も得て、明治3年、日本で初めての私立病院である洋風病院「蘭疇社」を建てる。開院式には司馬凌海1人しか参加しなかった。健康のために、特に虚弱の者には牛乳の飲用を勧め、市川団十郎が愛飲するようになると宣伝チラシを配布して大いに普及した。ある時、兵部省の山県狂介(有朋)が訪ね軍医部を作りたいと請われて、名を順と改め、兵部省出仕の辞令を受け、兵部省軍医頭に任命された。軍医寮が廃止されると初代陸軍軍医総監に任じられた後、獣医学校をもうけた。海水浴の効能を説き大磯を海水浴場として適地であることを説いて回った。順の父泰然の養子佐藤尚中の養嗣子となった佐藤進の末子である本松を順は可愛がり、順天堂病院院長になっていた佐藤進に本末を頼んだ。順は76歳で亡くなり、進は順の遺言どおり本松は順天堂に引き取られ、本松は東京帝国大学教授岡田和一郎の耳鼻咽喉科教室と順天堂外科に一日おきに勤務し、ヨーロッパ、アメリカ留学で耳鼻咽喉科の研さんに努め、順天堂に復帰して東京帝国大学から医学博士の学位を受け、77歳で逝った。

 

巻末の末國善己の解説によると、史料に基づき歴史を語る歴史小説より史実を正確に表現する史伝というジャンルの創始者森鴎外とされ、徳富蘇峰大岡昇平井上靖海音寺潮五郎を史伝作家として名をあげ、吉村昭もその名に連ねるという。司馬遼太郎の『胡蝶の夢』との違いを解説者ならではの視点で分析してくれているのは有難い。