遠き落日《一》 渡辺淳一

2007年5月20日発行

 

1979年吉川英治文学賞受賞。

序章

 著者は、野口英世が黄熱病の血清を求めて講演に訪れたメキシコシティに空路で入り、野口英世の講演を当時きいたヴィラヌエヴァ氏宅を訪れる。野口英世はニューヨークからメリダまでの汽車旅の1週間でスペイン語をマスターしてスペイン語で講演をしてくれた、現在の国立病院の前に野口の銅像があるが病院移転と共に銅像も移すかもしれない、しかしヴィラヌエヴァ氏は野口が夜も寝ずに研究に打ち込んでいたこの場所を追い出してはいけない、だから銅像の移転に反対している等野口のことを熱く語るのを聞いていた。メリダに入る前に著者はロスでプレセット女史への取材を試み、日本時代の野口に詳しい著者とアメリカ時代の野口に詳しいプレセット女史とのやり取りの中で互いに強みを交換しようとしたが上手くいかずメリダでの取材を終えると再びロスに戻りプレセット女史との再取材を予定していたところから始まる。

 

第1章 猪苗代湖

著者は、野口英世の生家があった福島県耶麻郡翁島村大字三ツ和字三城潟(今の猪苗代町)に訪れ、野口家が名門ではあるものの、英世が生まれたころには零落し、母シカが働いていた日銭で辛うじて飢えを凌ぐ状態であった、英世の父は酒飲み博打打ちで家族を苦しめるためだけに存在していたことなどを紹介する。8歳で子守働きを始めたシカは子守をしながら家事から野良仕事をさせられる中、独学で字を学び、体の不自由な祖母の面倒を見た。祖母が亡くなると、母と体の不自由な祖父が戻ってきたが、祖父は寒さのため肺炎を起こして翌年亡くなり、母は農耕に向く女でなかったため12歳のシカは朝早くから夜遅くまで田畑で働いた。20歳になったシカは佐代助を婿に迎えたが、酒浸りの日々を送る。そんな中長女イヌ、英世が産声をあげた。シカが夕暮時に家に帰り再び外出した際、英世が囲炉裏に落ち左手に火傷を負う。焼け爛れた左手は拳を開くことができず8歳から学校に通う。シカは自らの不注意で不具にした償いは苦しみをともにするしかないと思う。左手が不自由でも成績優秀だった英世にシカは勉強を頑張れと言い英世は勉強に勤しむ。小林栄先生から進学を勧められ、高等小学校に進んだ英世はすぐに頭角を現した。英世を勉強に専念させるため、シカは19歳のおとめを英世の嫁に迎えたが、嫌がる英世の態度を見て1年で実家に戻った。英世は八子家から度々無心をくり返し総額千円(今でいえば2,3000万)をこした。英世は作文に自らの不具の悲しさを訴え援助を待つとの一計を思いつき、手術代を募集し17歳で渡部医師に手術を受けた。

 

第2章 会津若松

高等小学校卒業後、再び小林栄を訪ねて、将来のことを相談すると、教師、役人、医師を選択肢にあげられ、英世は「俺、医者になります」と言い、一介の百姓が医師になることの難しさを伝えられ、手術を担当した渡部鼎先生の下を訪れる。特別に書生として置いてもらえることになった英世は病院で手伝いをしながら勉強をした。ほどなく吉田喜一郎も書生に加わり二人は競うようにして勉強に励んだ。高山歯科医学院の幹事をしていた血脇守之助が医院に立ち寄った際に原書を読む清作に興味を示した。

 

第3章 芝伊皿子

英世は会津から東京に出たのは21歳。前期試験合格後、血脇を訪ね寄宿舎に住まわせた。英世は若松で英、仏語をマスターしていたが、ここではドイツ語を学んだ。その学費は血脇の月給交渉を高山院長にするようアドバイスし月給をアップさせ、更に物入りになると、今度は高山に病院経営を血脇に譲り、大学経営に専心するようアドバイスし、物の見事に病院経営を実現させ、毎月15円もの援助を血脇から受けることに成功する。

 

第4章 本郷時代

 当時は打診法が有効な診察法であったため、英世は再度手術を受ける。但し金がないため学用患者として受けた。これが後の東大何するものぞと思う英世の原点でもあった。これにより僅かだが中指と拇指だけが動かせるようになり、遂に後期試験にも合格した。80名中4名だけの合格だった。合格の報にシカは大そう喜んだ。シカはその後産婆について助産術を習い産婆として名を成していた。英世は田舎に帰らず高山歯科医学院で教壇に登ったが半年もすると更に本格的な医学を学びたいと願い、順天堂の菅野徹三医師の下で次々と論文を書いていった。同時に著者は英世の浪費癖が昂じている様子を半ばユーモラスに描いている。

 

よくある野口英世伝記とは異種の英世伝、続きが楽しみだ。