冬の鷹《下》 吉村昭

1996年12月20日発行

 

1年間、良澤は玄白、淳庵、甫周と共に翻訳作業を続けた。オランダ語の発音のままに日本文字にしたものが多かったが次第に神経など大胆な訳し方をするようにもなり、随所に誤訳は生じたが、腑分けの作業とも照らし合わせて総体的には殆ど正しく大意は翻訳されていった。玄白は翻訳を完成し出版することを焦り、その性急な性格は事業を推進させた。1年半で基本的翻訳は終了し整理段階に入った。玄白は翻訳書に先駆けて解体図だけを報帖(ひきふだ)のように世に示して医家の関心を引くことを提案し、禁令に触れる危険もあるため責任者は玄白と淳庵とした。人体図は解体新書との名称にすることが決まり、刊行したところ幕府の動きは見られなかった。医家は無視をしたが、欧州一ノ関藩田村候の従医建部清庵の塾生だけが関心を示した。玄白の下には次第に医家たちが群がり始め、序文を良澤に認めて頂きたいと願い出ると良澤は辞退すると言う。良澤は翻訳書に一字たりとも名前を記載して頂きたくない、名をあげるためにやってきたことではないと言う。もともと良澤は完訳を果たして初めて刊行すべきもので解体新書の刊行そのものを時期尚早と考えていた。玄白の行為は名誉欲の現れとしか思えなかったからである。玄白は名声を博したい気持ちもあったが、一日も早く世に出して医家たちに利益を与えることが社会的義務だとも考えていた。玄白は序文を大通詞吉雄幸左衛門に願うため再び良澤に依頼すると良澤はこれに応じる。幸左衛門の序文は持ち上げすぎで儀礼に出したものと良澤は受け取り、玄白は涙を流しながら喜んでいた。玄白は草稿の推敲・加筆を続け、体裁を整えていった。将軍家治への内献が決定し「解体新書」は遂に一般にも流れ出た。漢方医の激烈な批判にあったが、玄白の訳者としての名声は高まる。良澤の息子達は訳者として良澤の名が見られないことをいぶかしがり、父に理解できないと言うと、良澤はあの書が完全な訳書でなく未完訳稿ともいうべきもので出版すること自体自分の意に反することだと説明する。良澤は藩主からボイセンの『プラクテーキ』の翻訳に取り組み1年足らずで精読を終えた。玄白のもとには診察を乞う患者が後を絶たず多忙を極め臨床医としての仕事に専念した。一方良澤は老いた。良澤は生涯一老書生として生き富も名誉も彼の願中にはなかった。69歳で息子の達を亡くし70歳で妻を失った良澤の身辺は荒涼としていた。一方60歳を迎えた玄白は多くの子供に囲まれた。解体新書が出版されて20年近くが経ち、玄白の還暦祝いの招きに応じた良澤だったが、ターヘル・アナトミアの翻訳後、人との交際を絶った良澤が唯一と言って良いほどに寛政三奇人の一人と称され、息子のように接していた高山彦九郎が亡くなると残された気力が失われた。それでもオランダ書の訳読みのみ心を傾けた。玄白70歳、良澤80歳を迎え、良澤は亡くなり、玄白は85歳まで生きた。

 

生き方が対照的で、死の形も対照的な良澤と玄白の二人。両典型は時代が移っても私たちの中に確実に生きている、という著者のあとがきには、いたく納得した。