『原爆の子』の父 長田信 子どものしあわせと平和のために生涯をささげた日本のペス タロッチー 川島弘

2014 年 8 月 6 日 初版第 1 刷発行

第1部 生い立ちから学生時代まで
 第1章 名前の由来 『大学』「苟(つつ)ミテ日ニ新タニ、日日ニ新タニ、又日ニ新タナリ」から小学校の塚原浅茅(あさち)が取った名。
 長野県茅野市にて、農業のかたわら、助教を務めたこともある父と、裁縫の先生を長年勤めた母の背中を見て育ち、自分も先生になることを夢見る。片道三里(12 キロ)もある中学校までの道のりでは英単語 1 語覚えるごとに小石を拾い続けた。
 第2章 高等師範学校時代 広島高等師範学校英語科に入学後、恩師小西重直先生と出
会い、卒業後は大分県師範学校の教諭に。
 第3章 大学時代 京都帝国大学に入学し、西田幾多郎、川上肇の下で勉強し、フレー ベル『人間の教育』を読んで教育に一生を捧げる決心をする。

第2部 日本のペスタロッチー
 第1章 澤柳政太郎の片腕として 東北大や京都大の学長も務め帝国教育会の会長だっ
   た柳澤の助手として、4 年程、東大図書館や上野図書館に毎日通い、哲学・教育学・心理学・歴史・軍事・外交・医学・農業など幅広い分野にわたり様々な資料をまとめ、毎晩 7 時から9 時まで柳澤に講義する。柳澤は日本ニペスタロッチーを初めて日本に紹介し、その考えに基づいた教育をするために大正 6 年に成城小学校を創立する。
 第2章 ペスタロッチー研究にうちこむ
   東京帝国大学文学部への就職を断り、広島師範学校の教授となり、同僚とペスタロッチー研究会を設立し、ペスタロッチー運動を展開する。
 第3章 川井訓導事件 松本女子師範学校(現信州大学教育学部)附属小学 4 年生の教
室で修身授業の際、担任の川井清一郎が国定教科書を使わなかったために休職処分となったため、新は川井先生を呼び寄せて面倒をみる。
 第4章 世界的ペスタロッチー研究者に ライプツィヒ大学に留学しペスタロッチー研
   究を一層深め、昭和 8 年、46 歳で「ペスタロッチー研究」が認められて京都帝国大学から文学博士号を授けられ、昭和 14 年から3年かけてモルフの『ペスタロッチー伝』日本語訳全5巻刊行。ペスタロッチー研究所の在外所員にも任命される。「すべてを他人のためにしおのれには何ものも」というペスタロッチーの墓碑に刻まれた言葉は新の愛した言葉。

第3部 子どものしあわせと平和を守るために
 第1章 戦時中の長田新
 第2章 原子爆弾 昭和20年8月6日、新と息子は爆心地から1.6キロの市内平野町で被爆
 第3章 広島大学の誕生 広島文理科大学長に 新しく改編された広島大学学長には警戒されて任命されず。このため時間を取り戻せた新はペスタロッチー全集の完成、『原爆の子』を出版する。
 第4章 『原爆の子』出版 「書きたくなく、思い出したくない」「泣き出してしまう 女学生」の体験集の一部を岩波書店が『世界』でまず発表し、『原爆の子』が発刊される。当時のプレスコードを逃れたのは実に幸運。「人類平和のためのバイブル」と後に呼ばれるように。
 第5章 『原爆の子』の反響とその意義
   桑原武夫が抑えきれぬ感動を世界に寄せ、各国で次々に翻訳され、映画化され、『原爆の子友の会』が立ち上がり、平凡社からペスタロッチー全集13巻完成させる。
 第6章 平和運動の先頭に立って
      日本子どもを守る会の結成 原爆孤児精神養子運動(ノーマン・カズンズ) 原子爆弾症にて74歳で亡くなる

あとがき 今なぜ長田新

あとがきに添えて 執筆の経緯と謝辞


ペスタロッチについては、きちんと勉強してみたい。