昭和55年10月2日1版1刷 昭和59年2月23日1版7刷
①福沢先生を生涯の師と仰いだ父
②恵まれた環境の中で慶応幼稚舎へ
③東京高等師範付属中学から一高に進学
④東大卒業後、東邦電力に入社して九州勤務
⑤米国GM社へ初の実習生として留学
⑥発電所工事中に親友の仲人で結婚
⑦戒厳令下に電力国家管理の爆弾声明
⑧戦時中、需要要電力確保に奮闘
⑨終戦後、労使交渉の矢おもてに立つ
⑩業界再編成の末、中部電力社長に就任
⑫堰堤に新方式を採用した大井川開発
⑬経済使節団参加を機に社長退き会長に
⑭古稀近くますます充実した余生を
・明治32年8月東京生まれ。父は政治家と実業家の二股をかけたことに後悔はしていなかったが、けっして勧められる行き方ではないと訓戒を受け、私はそれを実直に実行した。慶應義塾の幼稚舎に入学し、中学から東京高師付中学(現在東京教育大学付属高校)に変わり、一高は二部(理工科)を志望し、東京帝国大学電気工学科を選び、出来たばかりの東邦電力に就職した。ここが松永安左エ門氏主宰だったため翁の薫陶を受ける身となった。1年半の米国留学を経て帰国後は三河水力関係の仕事に就いた。結婚後、名古屋勤務を命じられ、以降37年間名古屋勤務が続いた。東邦電力は大東亜戦争が勃発すると四分割され、中部配電株式会社で工務部長となった。戦後はGHQから電気事業へのパージが発令されたが、技術上の仕事を下に過ぎない理由でパージから免れ、副社長に就任することになった。中部電力が昭和26年に再出発すると私が51歳で社長となり、電源開発のため火力発電設備を増強し、水力・火力増設に取り組んだ。伊勢湾台風では中部電力が会社を挙げて努力し民間企業者としてただ一人表彰を受けた。60歳で社長を譲り会長となり、公職に関係する機会が増えた。(昭和42年より中部電力相談役。昭和56年11月18日死去)