昭和58年12月2日1版1刷
①ふるさと
②母のこと
③通天閣
④幼い日
⑤文学の芽
⑥宝塚の脚本
⑦処女作上演
⑧東京の演劇
⑩東京へ
⑪劇場巡り
⑫新国劇
⑬劇団運動
⑭左翼思想浸潤
⑮小田原転勤
⑯箱根事業に専念
⑰検査官接待
⑱三つの事件
⑲綺堂門下に
⑳父の死
㉑自信作
㉒「表彰式前後」上演
㉓順風満帆
㉔大陸従軍
㉕職を辞す
・明治35年11月7日大阪市生まれ。後に天王寺商業と改名した大阪高商の予科に入学後、宝塚歌劇団で脚本を投稿すると思いがけず当選し上演された。「コロンブスの遠征」という歌劇が宝塚で上演されたとき、会社員となっていた。日本演劇界の画期的な大事件と言ってよい築地小劇場の創立後、翌年大阪にやってきたのに狂気した。久松一声師の宅に呼ばれ宝塚歌劇団に招聘され、面接を受けると団長から詰問されて上京することにし芝居を次から次へと見て回った。父が大阪の材木問屋を止めて上京した。勤務先の日本電力会社が多忙となり、小田原の海岸町に移り住んだ。函館での仕事が軌道に乗り、岡本綺堂先生の入門を許された。綺堂先生が幸田露伴、谷崎潤一郎、武者小路実篤、菊池寛などと初代の芸術院会員になられた慶事はうれしかった。昭和13年NHKの放送ドラマ「秋の夜」を初めて書いた。綺堂先生の逝去後、松竹の大竹社長から先生の跡継ぎになるつもりでやらないかと声を掛けられ、東京に向かった。37歳の時だった。今から40年前の話である。