万葉集をつくった男 小説・大伴家持 篠崎紘一

令和元年5月25日初版発行

 

裏表紙「『歌で魂を鎮めよ』。天賦の才に恵まれた歌人大伴家持は愛妻の自殺と娘の死に苦しみながらも、父の遺言である万葉集の編纂に乗り出した。柿本人麻呂が残したとされる無名の人々の歌集を捜し、身分の違いを超えた『国書』完成に奔走する家持。だが謀叛人の歌をも集めたことが朝廷の反感を買い、追い詰められていく。霊界の力が残り、血の政争が絶えなかった古代・奈良を舞台に、謎に包まれた大歌人の生涯を描く歴史ロマン小説。」

 

古事記、日本書記の神典と並ぶ国書としての大和歌集を完成させるという大事業は、亡き父、大伴旅人山上憶良の二人が発案し、当代きっての歌作りの名人である旅人はこの和歌集を万葉集命名して万葉集の完成には家持の闘魂に託した。父は歌の秘伝を伝授するとき「一首、歌を詠みだすのは、一体の仏像を造るのと同じことぞ」と述べた。家持は万葉集完成のための有益な助言を求め、最初は吉備真備を訪ねた。一般庶民、下層の人々の歌が多く収集されている柿本人麻呂の第二和歌集(幻の歌集と呼ばれ、いずこにあるかわからない)を捜し求めた。廬舎那仏造営に当たる行基に会い、紫微令に任命された藤原仲麻呂に会い第二和歌集の探索を依頼した。行基が難事業を成功させたことは万葉集の事業への意欲を失った家持を𠮟咤した。藤原宿奈麻呂(すくなまろ)の提案を受け家持は防人歌を収集すべく手配した。藤原仲麻呂は謀叛を企む者として家持のほか、大伴古慈斐、橘奈良麻呂、古麻呂を論う。仲麻呂は家持に万葉集を盗人から取り戻した見返りに謀叛人たちの歌を万葉集から取り除くことを求めた。これに対し家持は万葉集の大霊神はおのれの霊威を冒涜した者に復讐を果たす(呪詛返し)があると言う。家持は因幡の国に再び左遷されたが、鑑真と会い、鑑真が人生の正念場で己にとって最も困難なことは写経を止めることであったと聞き、自らも万葉集に載せる最後の歌(4516番)を詠むことにし志願が叶うまで歌を詠むことをやめる決心を固めた。光明星太后崩御すると家持は再び因幡国から帰京した。仲麻呂との戦いが避けられぬ情勢となり、仲麻呂が都を脱出した直後、仲麻呂の部下で歌人中臣宅守から探し求めていた第二和歌集を渡された。道鏡即位派だった家持は母や妻を始め一族に大反対され、妻の諫死に遭い進退窮まった。女帝(孝謙天皇)が崩御すると、光仁天皇が即位すると、諸国の民の歌を収集する詔勅が出され万葉集の完成に近づいた。773年2月、ついに万葉集が完成した。舒明天皇、皇極、幸徳、斉明、天智、天武、持統、文武、元明、元正、聖武孝謙淳仁の13代、130年間の歌を収蔵する大歌集となった。発案から43年。家持57歳。巻数20巻、和歌総数4516首。無名の民、一般大衆の歌は2700首を超えた。最後の課題はこの和歌集を朝廷の認める国の書として世に流布することだった。反対派を押さえるために神明裁判にかけて勝利した。が73歳の光仁天皇が譲位し桓武天皇が即位すると、桓武の謀略で家持は捕縛されることになる。謀叛の証拠は見つからず家持は春宮大夫に復官し、最後に乾坤一擲の勝負に出た。桓武上皇、早良皇太子が天皇、安殿親王が皇太子になるという家持の案に同意し、家持は謀叛人にされずに済んだ。桓武平城京から長岡京に移った。皇太子は家持から昔聞かされた大仏、万葉集東大寺での受戒という3つの願業が成就したことを喜んだ。68歳で家持が亡くなると、桓武は皇太子と家持を謀叛の張本人として皇太子を弑した。桓武は悪鬼に支配された長岡京から平安京に都を移した。最澄の祈願の後、桓武は安殿に、ようやく家持に罪を詫び、万葉集は安殿の事績とし、最澄が唐から帰国すると法要を終えて桓武は安らかに息を引き取った。百年後「古今集」が編まれ、最澄は新たな仏法を創設し一乗戒を敢行した。