2004年7月30日第1刷発行 2004年8月30日第3刷発行
目次
Ⅲ 仏教の革命 法然 親鸞 一遍 明恵・叡尊・忍性 栄西 道元 日蓮 日親 蓮如
Ⅳ 仏教と芸術 西行 運慶・快慶・円空 無外如大・二条 夢窓疎石 一休 雪舟・千利休
あとがき
・仏教は欽明天皇の13(553)年に百済の聖明王により日本に伝来した。200年後の753年、東大寺という国家大寺が造られ、ビルシャナ仏の開眼供養が行われた。律令制の基礎は聖徳太子がつくり、完成者は藤原不比等である。但し不比等はその理想を1段も2段も低くした。太子は法華経を我が国の仏教の中心経典にしようとした。
・役小角(えのおづの)を解くカギは、山人、呪術、反逆にある。小角は呪術で有名で伊豆に流された。そのことは『続日本記』にある。
・行基は日蓮よりもっと身分の低い貧しい女の私生児として生まれ、それゆえに民衆の生活の苦しさをつぶさに知ることが出来、多くの衆生を救済することができた。様々な社会事業を行った。
・東大寺に戒壇院が出来ると、鑑真という僧は必要がなくなり、鑑真は土地を与えられ自ら唐招提寺という寺を建てる。「招堤」とは唐では私立の寺を意味する。遠い唐の国から日本に来て戒を伝えた鑑真の誇りと怒りが込められているように思う。
・空海は恵果から真言密教の秘法を一人授けられ帰国した後、嵯峨天皇の寵愛を受け、東寺の西塔の市に灌頂(かんじょう)院を建てた。潅頂院は密教において僧や俗人が師から灌頂を受け大日如来と一体になる儀式を行う最も重要な建物である。
・聖徳太子が重んじた法華経を根本経典として巨大な思弁体系を構築した天台智顗の教えを信奉する教団をつくる必要がある考えた最澄は、徳一論争や一向大乗戒の戒壇設立を主張する『顕戒論』で果敢な論争に明け暮れた。最澄は戒律の簡略化・内面化を図り、これが親鸞により一層徹底され、親鸞はその中でも邪淫戒を否定して肉食妻帯を主張した。
・円仁系は山門仏教、円珍系は寺門仏教を立て、派閥は異なるが、円仁、円珍により、日本の天台宗は、天台学と密教の融合という変貌を遂げた。東密(東寺の密教=真言宗の密教)に対し台蜜(天台宗の密教)という。
・覚鑁(かくばん)は真言宗において長い間おろそかにされていた空海の著書の研究を志し、真言密教の復興を図った。
・親鸞教団に伝わる資料以外で親鸞が法然の弟子であったことを示す唯一の証拠は「七箇条制誡」である。法然は哲学者であり親鸞は詩人であった。
・一遍は捨聖としての遊行の旅を飄飄と歌った。
・明恵は真言密教を神護寺で学び、叡尊と忍性は戒こそ仏教の魂であると叫び、戒の復興を志した。
・栄西は『興禅護国論』を著わし、法然の新しい浄土宗と並んで禅は日本で布教の大道を開いた。
・道元の『正法眼蔵』は大変難解である。日常生活を細かく規定し、ひたすら修業することを命じている。
・日蓮は本尊曼荼羅を創出した。真ん中に南無妙法蓮華経、右側に不動明王、左側に愛染明王を表す梵字を書き、四方に四天王を書き、上中下三段に仏の名を書き記した。字による図形により思想体系を説明するもので甚だ分かりやすい。図形的認識の創始者といえる。
・日親は後の不受不施派という日蓮宗の新しい運動を生んだ。日親は中山法華経寺第七世貫首となった日有のもとで小城地方に布教のために派遣され、そこで見た雑信仰に耐えられず、『立正治国論』を書いた。不受不施派は信長、秀吉から弾圧された。日親を高く評価したのが高山樗牛である。樗牛に日親の偉大さを教えたのが国柱会創始者田中智学である。
・武士だった西行は23歳で出家し、僧であり歌人だった彼の人生を最も慕ったのは松尾芭蕉である。西行歿後15年目に撰された『新古今和歌集』に西行の歌が94首も取り入れられた。
・定朝の仏像彫刻後、停滞期の沈黙を破った仏師が運慶。快慶は運慶のような激しい気性の持主ではないが、神聖なものを敏感に感じ取る心を持っていた。円空は日本各地に十万体の仏像を造り残した。
・二人の尼僧、無外如大と二条。前者は悟りを開き尼僧の祖として尊敬され、後者は『とはずがたり』という書物を残した、好対照の二人がいる。
・夢窓疎石は禅を芸術化することで真の意味の日本的禅を創始した。無窓の功績は尊氏・直義兄弟に天龍寺を建立させ、義満は相国寺を建て、相国寺の山外塔頭の金閣寺・銀閣寺も無窓を名義上の開山とする。
・天海は上野寛永寺・日光東照宮の創設者。方広寺の鐘の銘文に関する事件の黒幕の可能性がある。崇伝の功績は諸法度を制定したことである。
・江戸時代の禅僧といえば禅を主として武士に説いた沢庵と、主として庶民に説いた白隠が注目される。白隠により初めて中国の禅が日本化しそれが鈴木大拙らにより世界に普及した。沢庵と白隠の間に隠元がいる。
・良寛は乞食の行を生活の手段としたが、その心境を漢詩と和歌と書が渾然一体となった芸術で示した。
・科学を使い大乗仏教研究に挑んだ冒険者が河口慧海であり、大谷光瑞であった。河口は桶屋の息子、大谷は親鸞の直系の家に生まれ第22世鏡如上人となった。
意外と知らない人がいたので、大変勉強になった。