昭和58年11月2日1版1刷
①江津湖で生涯の楽しみの釣りを覚える
②四月の江津湖は五高のボートレース
③いも掘り・水前寺公園行き・酒びん
④高女時代、破魔子を避けて濱子と書く
⑤すべてを読み了せたく思った若き日々
⑥ホトトギスに入選。写真だけの婚約時代
⑦十年間の空白後、虚子先生に会う
⑧そぞろ歩いては句を作った仙台での生活
⑨買い出しに走りまわった戦時中
⑩苦しい戦後の生活と晩年の母のこと
⑪「風花」の創刊号に武者小路氏らが寄稿
⑫中国旅行・欧州旅行・陛下のお言葉
・明治33年4月11日生まれ。13歳で熊本県立高等女学校に入学した。父は「破魔」と名付けたが、恐ろしい名前と言われ、「濱子」「はま子」と書くことにした。結婚して夫の任地の東京、仙台、名古屋、大阪、横浜に移し住んだが、大阪時代だけ句を作りたいと思った。横浜時代に初めて高浜虚子先生を訪ねる気を起こし、ホトトギスの同人に加えて下さった。主人が本省に転任し、大森山王に家を借りた。台所俳句と言われたが、気にしなかった。仙台では子供の成長の記録した。再び東京に転任になり世田谷北沢の家に入った。19年に「汀女句集」を出した時は虚子先生が題字と序文を書いて下さった。空襲警報に明け暮れる中でも句を作った。「一脚の運び残せし籘椅子かな」はその当時のもの。私は俳句を十七文字の消息文だと思う。お互いに句が出来て今日に満足し明日を楽しく待つことが出来れば子の上ないことではあるまいか。