馬上少年過ぐ《下》 司馬遼太郎

2010年5月20日発行

 

馬上少年過ぐ

馬上少年過ぐ

世平らかにして白髪多し

残躯天の赦すところ

楽しまざるをこれ如何

伊達政宗が晩年に作った詩の第1句。平仄と押韻の正確さは油断もすきもない彼の計算能力をあらわすものではないか。政宗は生母の於義に嫌われた。於義は弟の竺丸を世継ぎにしようと画策した。毒を盛られた事件が起き、自ら弟を刺し殺し、また父が敵対する武将に捕らえられた際、親ごと敵を打てと命じるあたりは非情であった。戦国の英雄時代は去ろうとしており、信玄や謙信もこの世になく、信長は政宗家督を継ぐ前に本能寺で斃れた。秀吉が織田の権益を相続し、北条、家康、長曾我部元親、島津義久が有力だったが、遅れて政宗は登場してきた。が、東北は50年ばかり後れていた。歌道に堪能な政宗であった。

 

重庵の転々

 土佐人山田重庵は南伊予で医者を営んでいた。温暖な気候風土の伊予の中にあって重庵は往診をこなし次第に人々の尊敬を集めた。そんな折、重庵は宇和島伊達家の分家吉田伊達家の殿様の伊達宗純の病を見事に治療し快方に導き、宗純の信頼を得て侍医となる。ある時豊後から流れてきた兵法者が伊予の使い手を次々と倒し兵法指南役まで激しく撃って右肩の骨を砕いた。重庵は木刀を拾い上げその兵法者を指南役と同じように骨を砕くと、重庵への評価は恐ろしいとなった。重庵は山田仲左衛門と改名し筆頭家老となって大幅な組織改革を行い旧来の家臣から逆恨みされた。重庵は他所者であるのに筆頭家老になったことで周囲から蔭で激しく批難された。内乱を目論む勢力がこの状況を利用した。8人様と尊称される8人の足軽たちは奸臣山田仲左衛門出仕の途中で天誅を加えようとした。が内通者が出たため8人はその場で取り押さえられ切腹を命ぜられた。仲左衛門を恨んだ甲斐織部らは仙台伊達藩の江戸屋敷に参上して月番家老の柴田内蔵に対面し仲左衛門を訴えたことで、仲左衛門は宗純の要望で医師重庵として仙台藩預りとなった。実在の山田重庵は、じつは山田文庵という。

 

城の怪

大阪夏の陣が終った頃、大須賀万左衛門は、備前ものの鍋売りのお義以から、城の火縄蔵から死霊とも狐狸とも言われる幽霊が出ると聞かされ、退治されてはどうかと言われる。足軽の松蔵が万左衛門を城内に招き入れて、夜まで火縄蔵で待つと、蝋燭の灯が無数にきらめいた。服部治平は2人を侵入者と思い、声をかけると万左衛門は治平を斬った。松蔵は化け物退治に失敗した以上、万左衛門を殺す以外に自らの罪を逃れる術がないと気付き、万左衛門に向って突進したが、万左衛門は松蔵を斬った。が、万左衛門の水死体がお城の濠にあがった。

 

貂(てん)の皮

 播州脇坂氏の初代脇坂安治(通称は甚内)は、野伏だったかもしれないが、いずれにせよ寝返っても文句も話題にもならない低い身分だった。秀吉から策を授けられて単身命を捨てる覚悟で籠城する赤井悪右衛門の下へ降伏の説得に当たった甚内は自らの命ではなく兄家清の子忠家の助命を請われて身に代えてもと約束すると、赤井から貂の皮の指物を礼として受け取った。赤井家の家宝として代々伝わる物だった。めすだったので、おすの貂を所望すると、赤井から城門を開く時間帯を明かして自らを討ち取ることを示唆され、見事手にした。秀吉の床几まわりの七本槍の1人として賤ヶ岳の合戦で名をあげた。甚内は3百石が与えられ、部将の身分になった。が、ある時大きな失敗をして織田信雄と家康がタッグを組んで秀吉討伐に動き出すきっかけを作ってしまった。内通していると秀吉に恫喝された甚内は決死の覚悟でわずか20騎で伊賀国の首城上野城に乗り込み、再び秀吉の覚え目出度きを得て最終的に三万石に加増された。後に小早川秀秋が寝返った時甚内も行動を共にし家康から嘉賞され2万石加増された。2代目安元(号は八雪軒)に家督を譲った。